夜に堕ちる side:H

蔵馬の指が俺の右腕に巻いた包帯を丁寧に取り去っていく。
大した傷なんかじゃない。手当てなどいらんと言ったのに、種の礼がわりだど聞かなかった。本当にただ都合が良かったのと、気紛れでとってきただけだ。礼などされる覚えはないというのに。
眠っている間に渡すものだけ置いて帰るつもりだった。こうなることが解かっていたからだ。お節介なこいつは、例え小さな傷でさえ負っていれば放っておこうとしない。
確かに蔵馬の治療は的確で、傷の治りも早い。手当てを受けることは俺にとってマイナスにはならないが、この時間は居心地が、悪い。
胸の奥がもやもやとして落ち着かない。早く立ち去りたくなる。その反面、終わった後の虚無感。物足りないような感覚。正体の解からないそれらが、煩わしい。
それは治療中に限ったことじゃない。蔵馬といると、時折そんな感覚に苛まれる。
「そんなに深くないみたいだな」
傷に薬を塗り込みながら蔵馬が呟く。だからそう言っているだろう。
布を当て、短い包帯を巻き、その上から忌呪帯を施してゆく。
この巻き方を正しく教えたのは蔵馬だった。最初書物を見ながらやったものは上手くいかず、最後には呪符を使って何とか押さえ込んだ。それが蔵馬の手にかかればものの数秒で出来上がった。
何故お前にはできる、どうやったと問えば、貴方にもできますよ、と微笑んだ。蔵馬が言う通りにやれば本当に、嘘のようにできて、やはりこいつは蔵馬なのだなと、妙に納得したのを覚えている。
蔵馬はすべて包帯を巻き終えたようで、最後に二の腕のところで余した端を結び、残った分を切る。その後を一つ、確かめるように白い手のひらで撫で付けるのは、蔵馬の癖だった。
離れていくぬるい温度が、いつものように胸の奥にむず痒さを生む。掴んで引き戻したい衝動に駆られるが、そうして一体どうするというのか。そうしたら、こいつはどんな表情をするのか。
答えの出ない疑問に遮られて、今日も俺の手はだらりと脇に下げられたままだ。
何もせず眺める俺の前でそのまま道具一式を片付け始めた蔵馬がふと、その手を止めた。 そうして俺を振り返った顔は、焦りの色を帯びていた。恐る恐るといった様子で伸ばされた指が、俺の上衣の前をはだけさせる。
「……ここも、」
低く潜められた声が、僅かに震えているような気がする。
「怪我してるじゃないか」
気づいていると思っていたが、そうではなかったらしかった。だとしても別段構いやしないから、自分から言うつもりはなかった。
「これも大した怪我じゃない。もう塞がりかけている」
「でも、」
「お前こそ鼻が利かなくなるくらい消耗しているならさっさと寝ろ」
図星だったらしく、蔵馬は口をつぐんだ。
この間も人間界での仕事が忙しいと言っていた。こいつが嫌味としてではなく本音で愚痴を溢すことなんて滅多にない。それほど参っているのだろう。
しかし蔵馬は、僅かに俯かせていたその顔を上げたかと思うと、あのいつもの、ひとをたぶらかす時の笑みを浮かべて言った。
「オレのことを心配してくれるのは嬉しいけどね」
「誰がだ」
心配などした覚えはない。眠いなら眠ればいい、そう思うのは当たり前のことだ。そしてそうしないこいつは不可解で面倒臭い奴だと、そう思っただけだ。
否定する俺の言葉を聞いていたのかいなかったのか、構わずまた手当てを始めた。
「いくつか毒を持ってるヤツがいたはずだから、もしそれにやられてたとしたら洗浄くらいしておかないといくら貴方でもまずいでしょう」
「それくらい自分でやる」
身を捩って逃れようとすると、にこりと微笑み、しかし抗わせない瞳で、俺を見上げた。こうなればテコでも動かないこいつの頑固さは知っている。いい加減面倒になって、したいようにさせることにした。
「オレもね、」
視線を自分の手元に落とした蔵馬の顔からは、あの意地の悪い笑みは消えていた。そして手を休めることなく、その整った眉を寄せて、小さく呟く。
「貴方が心配なんだよ、飛影」
それは、夜の中に響いて、溶けた。

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