夜に堕ちる side:H-2

「貴方が心配なんだよ、飛影」
それは、夜の中に響いて、溶けた。
溶けたものが俺の身体に、耳から、腕や脚や腹から染み渡って、中で熱く広がって、満たしていく。
俺が心配だと?俺がどうにかなることが、お前に何の害になるっていうんだ。俺がくたばろうとどこかへ消えようと、お前の何かが変わるわけじゃないはずだ。
大体他人に構っている場合じゃないだろう。今だって俺よりお前の方がよっぽど弱っていやがるくせに。
そんな風に笑って、茶化して誤魔化して、世話を焼いて。
いつだって何でもない顔をしながら、誰かのために自分を投げ出して。
いつか、あっという間に、季節が流れ花が散るように、俺の前から消えるんじゃないかとさえ思うほどに。
どうして、お前は。
包帯の結び目を蔵馬の手が撫でる。それが離れていく。
何も考えられなかった。ただ遠ざかるそれを、逃がすまいと捕らえた。
掴んだ手指は仄かに熱を持っていて、柔らかく、しかし見た目よりも、強さがあった。
濡れた瞳が俺を見る。驚いたような、戸惑うような表情だった。
それ以上その眼に見つめられるのは、堪えられなかった。だから掴んだ蔵馬の腕ごとその身体を引き寄せて、背に腕を回して腕のなかに隠した。
さら、と音を立てて肩から長い黒髪がこぼれ落ちる。つられてふわりと立ち込めるのは、いつもこいつが身に纏う植物と蔵馬自身の香りの混じった、甘い匂いだ。
誘われるように、髪の中へ指を差し込んだ。それは驚くほど柔らかく、僅かな抵抗もなく指の間を滑り落ちていく。
耳を澄ませば規則正しい鼓動と、蔵馬の小さな息遣いが聴こえた。蔵馬は何も言わない。動きもしない。今どんな表情をしているのか、見たいと思いながら、そうすることはできなかった。まだ驚いているのだろうか。それとも、その整った顔を嫌悪に歪ませているのだろうか。
……俺は一体、何をしている?
何がしたいんだ。何がしたかったんだ。訳がわからん、だから俺はこいつが苦手なんだ。解からなくなる。ぐちゃぐちゃになる。こいつのことも、俺自身のことも、何もかも。
離れなければ、と思った。早く蔵馬から離れなければ、何かが壊れるような気がした。或いはもうとっくに壊れてしまったのかもしれないが、それでもそうしなければと思った。
蔵馬の身体に回した腕をほどく。自分でも呆れるほど、酷く緩慢な動きだった。
離れる。
その寸前、俺の背に熱が触れた。思わず身体が強張った。動けなかった。
代わりに、腕の中の存在が僅かに身じろいだ。額を肩口に押し当てられた。背中に感じる熱が重さを持った。
「飛影」
くぐもった囁きに呼ばれる。
「……飛影」
音が震えているような気がした。細い顎に手をかけて、隠すように埋められている顔を掬い上げた。固く閉じられた目蓋がゆっくりと押し上げられる。現れた瞳は深い泉の中に溺れていた。
何故だ。どうしてそんな顔をする。こいつのこんな顔は、こいつが暗黒鏡で母親の命を助けた時、邪眼越しに見た以来だ。だがあの時は笑っていた。笑いながら泣いていた。今は笑っていない。怒っているのか、つらい、のか、かなしい、のか。俺がそうさせたのか。
考えても考えても、やはり俺には、お前のことが解からない。
胸の奥が、引っ掛かれるように傷んだ。この表情は嫌いだった。生まれて最初に見た顔だ。飽きるほど、思い出した顔だ。
長い睫毛がはたりと伏せられる。その弾みで、ついに溢れ出して雫が一つ、落ちた。
白い頬を辿り、唇を濡らしたところで引っかかって止まった。
それ以上流れていくのは許せなかった。
だから自分の唇をそこに当てて、その一滴を吸い上げた。
血の味に似ていた。

2008.05.28


side:H1

携帯...←戻
PC...ブラウザを閉じてお戻り下さい

inserted by FC2 system