眠っていた脳が、突然激しい警報を鳴り響かせた。
――来る。間違いなく、彼が。
身を起こし、窓に目をやる。カーテンに遮られたその先を見通そうとするかのように、鋭くなった目を細めた。あの炎のように熱い妖気が、こちらを目指して一直線に向かってきている。
――報復に来たかな。
彼を、裏切った事への。
枕に忍ばせてある植物の種を指で探り出す。滑らかな感触を確かめてそっと袖口に隠し、再び布団を被った。無駄だとは解かっているが、油断を誘うためだ。目を閉じ、全神経を耳に集中させる。狐の妖怪である蔵馬は、並外れた聴覚を持っていた。

「蔵馬ァッ!裏切りものめ許さんぞ!!ぶっ殺してやる!!」

怒りに燃えた赤い瞳を思い出す。
――予想はしていた。あんなにも、彼は怒っていた。自分が彼を裏切り、敵である霊界探偵・浦飯幽助を庇って、彼の剣を受けたから。自分が邪魔さえしなければ、彼は間違いなく勝利していたはずだ。……彼はその事を怒っている。
――でも。
あの時は、ああする他無かった。

数十秒後、カタリというほんの小さな――常人の耳には聞こえぬほどの――音が蔵馬の耳に届いた。窓の開く音。それと共にひんやりとした夜気が部屋に忍び入った。
――来た。
一歩、二歩…いつもの歩調が近づいてくる。三歩、四歩…間もなくこちらの間合いに入る――ところ、およそ部屋の中央で、足音は止まった。
「……おい」
凛とした、低い声が部屋に広がった。
「白々しい真似はやめろ」
やはりばれていた。大人しく体を起こし、月明かりに照らされた黒い影をまっすぐに見詰めた。
「……いらっしゃい、飛影」
口元だけが笑みを形作る。逆光で飛影の表情は見えないが、二つの赤い瞳と、その上で鈍い紫色の光を放つ邪眼が、怒りの色を浮かべてこちらを見返していることは、解かった。
無言のまま、飛影が、脇にさした剣を引き抜いた。笑みを収めて、暫しただ睨みあうだけの静寂の後。鞘が飛影の手を離れ、床に落ちたときには既に剣の切っ先が蔵馬の咽に当てられていた。
「……さすがですね」
そう言って僅かに微笑む蔵馬の袖口からは、飛影の咽元にまで伸びる蔓が揺れていた。
「………」
それを瞳だけを動かして睨み、次いで真正面から視線を絡める。吐息がかかるほどの近さで黒曜石色の大きな瞳が揺れていた。
…また、あの胸の高鳴りが押し寄せて、それを振り払うように飛影は言葉を紡いだ。
「……ふん…相変わらず油断の無い奴だ」
「それはどうも」
しゅる、とほんの少しだけ蔓が飛影の首との距離を詰めて伸びた。
「それで、今日は一体どういった用件で?」
この状況で、解かりきったことを訊ねてくる。刃を横に引きたい衝動を押さえつけ、飛影は鼻で笑った。
「母親は助かったらしいな」
その言葉に、蔵馬の目つきが一瞬氷のようなものに変わったのを見逃さなかった。
「……ええ、おかげさまで」
「……ふん」
余裕に見せかけたその返答が、なお神経を逆撫でした。ぎり、と柄を握る手に力を込める。
「ならば、もう未練はあるまい。何故そこまで生きることにこだわる?」
その問いに、蔵馬の瞳が僅かに見開かれた。まるで、そんな質問をされるなんて意外だったというようなその反応が、何となく優越感を与えるのは何故だろう。
「十五年前霊界のハンターに致命傷を負わされたとき、人間の受精体に憑依することでその命を永らえ、そして今度は自ら人間のために捨てようとした命を人間に救われた。これからもか弱き人間どもに縋って生きていくか?…伝説の妖狐蔵馬が、まったく笑わせてくれるぜ」
思いっきり、吐き捨てた。胸に押し込めていた感情が、堰を切ったように次から次へと溢れ出す。苛立ちと、憎しみと、怒りと――そして、この胸の中を渦巻き続ける正体不明の感覚と……。もう、止めようが無かった。
「おまけに人間を庇いやがって…そんなに人間が大切か?だから俺を裏切ったか!?答えろ、蔵馬…っ!!」
低く、押し殺した叫びだった。
怒りに燃える瞳を暫らくの間驚きの表情で見つめていた蔵馬だったが、やがてすっと目を伏せ、すぐに真剣な眼差しを向けた。
「俺はお前を失いたくなかった」


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