オレを抱き締める腕を、飛影はゆっくりとほどいた。見上げてくる強い眼差しに迷いはない。その瞳に見つめられるのは好きだった。一見すれば冷たいだけのようなその瞳に浮かぶ感情の色を見つけた時には、まるで砂の中から金の粒を探し当てたような、そんな喜びを感じた。そんなことを思い出しながら、そっと微笑んでみせる。すると、彼も僅かにではあるが、顔を綻ばせた。穏やかな表情だった。そのまま背を向けると、消えるようにして彼は跳び去った。一陣の風が駆け抜ける。誰かと語らう彼の声が聞こえた。満たされたような響きをして。
オレはゆっくりと片手を挙げる。とっくに見えない彼に向かって。さようなら。また時々、顔を見せに来てくれれば嬉しい。どうか、どうか、元気で――



ぼんやりと開けた視界の端に、逆立った黒髪が映った。その向こう側で風に揺れるカーテンと、その隙間から溢れ落ちるとろとろとした光。なれた景色に、ああ夢だったかと理解する。
身体の奥が酷く重い。それは決して昨夜の行為の名残だけではなかった。
頬は濡れていなかった。当然だった。悪夢ではなかったはずだ。あれはオレが抱いている願望だ。望む未来の姿。飛影が幸せになること。オレと飛影の結末の形。
残るのは寂しさ。慈しんだものを手放す喪失感。それは確かに哀しみに繋がるのだろうが、絶望ではない。飛影が幸せなのだから。
喉が痛みを訴えるほどに渇いているのを感じた。身を起こそうとして、背に回った飛影の腕に気づく。夢の光景がフラッシュバックした。オレの手で、そっと絡まる腕を外す。よく眠っているようで、僅かな身動ぎもせずに寝息をたてている。部屋を出るときも音をたてぬよう、慎重に扉を抜けた。
しかしやはり気配には敏感な彼には注意が十分ではなかったのか。喉を潤して部屋に戻った途端、ベッドの上に身を起こした飛影と視線が合った。酷く驚いたような顔をして、オレを見上げてくる。起こしてしまったことを詫びようと思ったが、口を開く間もなく抱きすくめられ、ベッドに引き倒された。
「お前が勝手にいなくなるのが悪い」
痛みさえ感じるほどに抱き締めながら呟いた飛影の言葉は、その真意は掴めなかったが、何故かオレの胸を軋ませた。
何ですか、と問うても、彼は黙って胸に顔を埋め、腕の力を強くするだけだった。
オレはどこにも行かないよ、飛影。彼の力の強さを感じながら、目を閉じてオレは胸の中で呟いた。オレは、どこにも行かない。誓うように、そのしなやかな背を抱き返す。
「お前が俺のものになればいい」
それは拗ねたような呟きにも、しかし強い願いのようにも聞こえた。
何故、と思う。何故今、それを告げるのか。
聞き慣れた台詞だった。それは彼が持ち得る言葉での、精一杯の感情表現だった。彼自身が知り得ぬ想いを、ありありと見せつけてくる瞬間だった。オレを喜びと戸惑いと、様々な感情の渦につき墜とす、残酷な言葉だった。
「もうなってるよ」
お決まりの答えを、ようやくの思いで口にしながら、やりきれない思いにオレは白い天井を仰ぐ。
飛影。お前がオレを求めるのは、オレが最初だったからだ。
お前に欠けた穴。それらを埋めるものを持つもののなかで、最初に出逢ったのがオレだった。お前の知りうる狭い世界の中でオレというものが目に止まった。それだけのことだ。オレはただの通過点でしか、ない。
これからお前はもっとたくさんの世界を知るんだ。そこでたくさんの他者と出逢い、見つけるんだ。強いもの。癒すもの。安らげるもの。美しいもの。分かち合うもの。オレ以上にもっと、お前にとって必要な存在を。本当の幸福というものを。
それまでは側にいるから。ずっとずっと、お前のものでいるから。お前の望む限り、ずっと。
「必ず手に入れてやる」
挑むような響き。胸に触れた熱い吐息は身体の奥を焼いて、オレはうまく答えを見つけられなかった。

【立体交差点】(2008.9.14)


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