遠くから誰かが呼んでいる。俺をではない。腕の中にいるものをだ。俺はそれを――蔵馬を、抱き寄せる。きつくきつく、逃すまいとして。
あんなものに奪われてたまるか。これは俺のものだ。他の何にも譲るわけにはいかない。これだけは。
思う俺を他所に、蔵馬は呼び声に耳を澄ましている。聴くな、あんな声、聴く必要はない。お前は俺の言葉だけを耳にすればいい、蔵馬。
俺の言葉は空しく空気に溶けるだけで、届かない。こちらに向きなおった蔵馬は言う。 あのひとが呼んでいるんだ。オレがいないと辛いと、死んでしまうと言っているんだ。だから行くよ。オレは、あのひとのところへ。
その瞬間、俺の頭は思考というものを忘れた。
動けない俺の腕を片方ずつゆっくりと外して、蔵馬は背を向けた。長い黒髪が風になぶられて翻るのを眼に映しながら、それが指の間を滑る感触を思い出していた。あれは少し癖があるがやわらかで、揺れる度に甘い匂いがした。
飛影。名を呼ぶ。凪いだ海のように穏やかな音は耳を掠める度、胸をくすぐった。振り返った唇は緩やかな弧を画いている。それがゆっくりと動いた。――



目の前に広がる白が見慣れた天井の色だと気づくのに、如何程の時間を費やしただろうか。同時に夢だとさとり、身体中からどっと汗が噴き出した。暑いのか寒いのかわからなかった。
身を起こして詰まっていた息を吐き出す。まるで長い間忘れていた息をするという行為をやっと思い出したようだった。同時に全身の感覚が鮮明になる。シーツに触れたてのひらが生ぬるい温度を辿った。そこでようやく、自分が一人であることに気付く。蔵馬がいない。昨夜は確かにここであいつに触れ、この腕に抱いたまま、眠ったはずだ。
まさか。重い頭を巡らせて眺めた部屋は静まり返っている。ただカーテンだけが、風が忍び入る度にふわふわと揺れていた。まさか、あの夢は――思いかけたその時、扉が開いて蔵馬が入ってきた。驚いたような目と出合う。直後、気づけば蔵馬を抱き寄せ、ベッドに引き倒していた。
その存在を確かめるために強く力を込めて抱く。細い身体。低い体温。馴染んだ妖気。甘い匂い。確かに蔵馬だった。おそらく何かを口にしに行っていたのだ。目が覚めて隣にいなかったことなど、これまでだって何度かあったはずだ。その度に適当な理由を見つけて納得していたし、それが正しかったにしろ正しくなかったにしろ、蔵馬は必ず戻ってきた。冷静に考えれば解かることだ。馬鹿馬鹿しい。どれもこれも、すべてはあの夢のせいだ。
「お前が勝手にいなくなるのが悪い」
お前が勝手に腕をほどいて離れたりするから、あんな、あんな夢を。唐突な俺の言葉に、何がですか、と困惑を滲ませた声が降ったが、答えなかった。
腹の底がじんと熱を持った。そこから何かが沸き上がってくるのを、奥歯を噛んで殺した。目をきつく閉じて、蔵馬の背に回した腕に一層力を込めた。温い熱を持つ胸に額を押し付けると、躊躇いがちに蔵馬が抱き返してくる。
「お前が俺のものになればいい」
知らずそんな台詞が溢れていた。そうだ、こいつがオレのものになるなら、あんな不快な夢を見ずに済んだのだ。苛立ちさえ覚えて、俺はもう一度強く奥歯を噛む。
「……もうなってるよ」
返ったのは蔵馬のいつもの答えだった。だがそれがますます俺を飢えさせる。口だけなら何とでも言える。お前はまだ、俺のものなどではない。
気付けはこんなにもお前に捕らわれていた。お前の一挙一動、言葉一つにこんなにも意識が奪われる。身体も精神も命さえをも独占しなければ気が済まない。
捕らわれているという事実を否定しようとしたこともある。今でも時折抗ってみようとする。だが最後には、認めざるを得なかった。俺はどうしようもなく蔵馬というものを欲している。こいつのすべてに捕らわれて、もう逃げられないのだと。
欲しいのなら手に入れなければならない。認めてしまえば欲は後から後からとめどなく溢れ出た。捕らわれているのなら、こちらも捕らえてやらなければならない。自分ばかりが執着しているのは癪だ。負けているような気がして面白くない。こいつにも俺を欲しがらせてやりたい。この誇り高い狐が俺を乞い求め懇願し、足元に跪く様を見てみたいとさえ思う。
だが俺は、いつまで経ってもお前を手に入れられずにいる。
先に見たあの夢を思い出す。蔵馬を呼ぶ声。それに応えて、俺の腕をすり抜け、去って行く蔵馬。あれは俺自身が意識の底に作り出したイメージだ。近い将来か、遠い未来か、こいつは俺の手の中から逃げて行く。
こいつ自身は俺を求めてはいない。俺が自分のものにしたがるからそれを否定しないだけだ。欲しがるから、与えているだけだ。求めたのがたまたま俺だった、だから与えられた。それだけのことだ。
他に蔵馬を必要とするもの、蔵馬を欲しがるもの。そんなものが現れれば、こいつはそれのもとへ行くのだろう。それはこいつの人間の母親や義弟たちかもしれないし、まったく別のものかもしれない。既に蔵馬の前に現れているやつかもしれないし、これから先、現れるのかもしれない。
俺が蔵馬を捕らえなければならない。そんなものが現れても決して俺の元から逃げられないようにするためにも。俺の一挙一動、言葉一つがこいつの意識を縛り付けるように。俺の身体も精神も命さえをも求めるように。俺の存在無くしては生きられぬようになるまで。例えこの先、どれだけの時を費やそうとも。
「必ず手に入れてやる」
それは意図せず音になった、俺自身と蔵馬に対する誓いだった。いつの間にか再び眠ったのか、蔵馬からの応えはなかった。

【立体交差点】(2008.9.14)


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