4
風呂から上がった蔵馬は、髪を拭きながら自分の部屋の窓を開けた。耳をすませてこちらに近づいてくる気配を探すが、見つからない。最後に飛影がここにやってきてから、４日が過ぎた。
「どこに行ったんだ、飛影……」
呟いて、そのまま床に座り込む。百足にも戻っていないらしい。
どことなく飛影の様子がおかしかったのが気になって、昨日百足に連絡を入れてみたら案の定、だった。
�爐匹Δ垢譴弌�俺のものになる��
去り際に、飛影が残した台詞だ。一体何のことなのか、見当がつかないわけではない。
(何度言えば解かってくれるんだろうなぁ、彼は………)
自分のすべては、もうすべて君にあげてしまった。もう手元に無いものを、どうやって他の誰かに渡せると言うのか。
(誰かに盗られるとでも思っているのだろうか)
彼は、失うことを極端に恐れている。彼がものに対して関心を抱くことは極めて少ない。しかし、一度興味を抱き、気に入ってしまうと、そのものに対して驚くほど強い執着を持つようになる。本人は、気付いていないかもしれないが。
氷泪石も、妹も、戦友も、皆結局はきちんと取り戻せたものの、一度は彼の手の届かないところへ行ってしまった。そのことが余計に、彼の大切なものに対する執着を強めているのかもしれない。
だからこそ、離れないと決めたのだ。彼が自分を求めてくれると言うのなら。
そう思いながら、本当は、自分の方が求めて欲しがっているのだと気付く。今まで、きちんと言葉に出して言ってくれたことはないから。ひょっとしたら、ただの自惚れかも知れないなんて……思いたくはないのだが。
「飛影――――………」
恋しさにそう呼んだ、その時だった。
「………っ!?」
蔵馬のテリトリーに、慣れ親しんだ妖気が踏み入った。弾かれたように立ち上がり、窓から上体を乗り出す。
来る、確かに近づいてくる。いつもよりも若干弱まっている気がするが、飛影の妖気だ。
すっ、と小さな影が遠くの家の屋根から飛び出した。思わず顔を綻ばせた、その時。
リィイ――――……ィン
聞き慣れない音が蔵馬の耳に届いた。
「何だ……？」
金属の擦れ合う音のようだが、どこか不思議な音色だ。
リィィイ――――ィン……
それは、飛影と共に近づいてきているようだ。
リィイィ――――…ィィン……
「………飛影」
目の前に降り立ったその名を、蔵馬は囁くように呼んだ。同時に僅かに鼻をくすぐる血の臭いに顔をしかめる。見れば衣服もぼろぼろで、その合間に覗く肌のあちこちに傷が走っていた。それを見た途端、蔵馬の中で、会えた嬉しさと同時に、怒りが込み上げてくる。
「こんなに傷だらけになって、今までどこに――……」
非難めいた声に耳を貸さず、飛影の右手が蔵馬の腕を掴んだ。
「聞いているのか、飛影！」
振りほどこうともがく蔵馬を押さえつけ、首からかけていた紐を外す。氷泪石と共にそこに通っていた『それ』の一つを取って。
「!?」
細い指にするりとはめられた。
「――――――――――――」
何の言葉も発することなく、蔵馬はじっと、己の指に唐突にはめられたそれを見つめていた。暫らくの間、ぴくりとも動かずに。その表情は、飛影には困惑しているかのように見えた。あるいは、怒っているかのようでもあった。いずれにしても何となく居心地が悪くて、飛影は視線を窓の外に向けていた。やはりこんなバカなことは止めておくべきだったかと、後悔さえし始めた、その時。
「―――――――……飛影」
名前を呼ばれて、びくりと蔵馬の方に向き直る。そこでようやく、蔵馬はその腕を動かした。そうして、それ――左手の薬指で青く淡い光を放っている指輪を、飛影の前にさらす。
「これは、一体――――………」
「……見れば解かるだろう」
飛影の言葉に、蔵馬は表情を変えぬままにかぶりを振る。
「ああ、解かる、解かるけど、そうじゃなくて――……」
言葉を選びかねている、といった様子であった。そんな蔵馬の言わんとしていることを察した、飛影の顔に朱がのぼる。『理由』と『意味』。それを蔵馬は問うているのだ。
「だ、だから、それは……だな………」
解かりきった答えなのに、なかなか口に出すことが出来ない。迷う飛影に、蔵馬の真摯な眼差しが刺さった。
「だ、から………」
「だから…………？」
「…………………けだ」
「え？」
「虫除けだっ！」
ようやく飛影の口から飛び出したその言葉に、蔵馬はぽかんとしてしまう。虫除け？これが？何だろう、この金属にそういう効果があるのだろうか？そう言えば、見たことない金属だしな………そんなことを考える蔵馬に、赤くなったままの顔を背けて飛影が言った。
「勘違いするなよ、俺は別に人間のシキタリだとかそういうものに従おうと思ったわけじゃない、それをしていればうるさい虫がつかないと聞いたからお前にやっただけだ！」
そこまでを一息で言い切って、飛影はつかつかと部屋の隅に置かれた蔵馬のベッドに向かうと、そのままごろりと横になってしまった。こちらに向いているその、自分より一回りほど小さい背中を、蔵馬は呆然と見つめる。
やがて、ようやく解かれた彼の言葉の意味が喜びとなって、蔵馬の身体にゆっくりと満ちていった。嬉しくて嬉しくて、思わず雫が零れそうになるのを、瞳を閉じて隠す。
「ありがとう……」
答えは、なかったけれど。
蔵馬はぎゅっと、幸福を胸に抱き締めた。
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