「これで、いいんでしょう……」
せめて着替えだけは別の場所で……と風呂場に消えた蔵馬がひょこりとドアの隙間から顔を出したのは、十五分ほど経過した時だった。
「やけに遅かったな」
「………………」
着替えている途中で何回も逃げ出そうとした、とはさすがに言えなかった。
「入って来い。見えないだろう」
いまだ顔だけ隙間から出した状態で、首から下は廊下に出たままの蔵馬に、意地の悪い笑みで飛影が呼びかける。
「蔵馬」
「…………」
促されて、蔵馬はしぶしぶ部屋の中に足を踏み入れた。

蛍光灯の灯りの下に、白い足が照らし出される。飛影の視線が剥き出しの肌に嫌と言うほど感じられて、蔵馬は恥辱に目を伏せた。先ほど、脱衣所の鏡で見た己の姿が脳裏に浮かぶ。あの姿を、飛影の前にさらしているのだ、自分は。今すぐ逃げ出したい衝動を耐え、噛み締めた唇から僅かに血の味が滲んだ。
「なるほど」
 暫し蔵馬の身体に視線を這わせていた飛影が、納得したように呟いた。
「これは確かに、煽情的だな」
「…………っもう、良いでしょう」
一刻も早くこの苦痛から逃れたいと、吐き捨てるように蔵馬は言った。だが。
「まだ、だ」
飛影の瞳が冷たく揺らいだと思った、瞬間。

「うわっ………」
凄い力で引き寄せられた――……そう気付いた時には、既にソファに座る飛影の腕の中にいた。
「な………!?」
突然のことに呆気に取られる蔵馬の胸を、布の上から飛影の右手が這う。その感覚にびくりと竦んだ肩に、今度は唇が落ちた。
「や、やめ……」
「うるさい」
非難の声は一蹴され、剥き出しになっている背筋を舌が辿った。思わず上がりそうになった声を必死で噛み殺す。そんな蔵馬に追い討ちをかけるように、空いていた左手が大腿に伸びた。
「ひえいっ………!」
ぞくりと背筋を駆け抜けたものに、悲鳴のようにその名を呼ぶ。
ぎゅっと目を閉じた。
「もうっ……いい加減にやめ……ろ!?」

突き放そうと伸ばした手が空を切り、蔵馬は驚きに目を開けた。視界いっぱいに広がるのは、白い天井。
「え…………?」
状況が把握できず、あたりを見回す。どうやら既に飛影の腕から解放され、ソファの上に横たわっているらしい。脇に腰かけ、肘を突いて自分を見下ろしている飛影がいた。
「……………?」
そっと上体を起こす。蔵馬の背中で結ばれているリボンを弄びながら、飛影が呟いた。
「つまらんな」
「なっ……」
ここまでやらせといて、つまらんとはどういうことだっ!!
あまりの言い草に、堪忍袋の緒はぶち切れ寸前である。そんな蔵馬に気づいているのかいないのか、飛影は何か考えるような仕草で天井を仰ぐ。
「これじゃあいつもと変わらん」
「じゃあ、どうしろっていうんですか」
むしろどうしてやろうかと考え始めていたりする。鞭か?食妖植物か?それとも………あらぬ方向へ思考を向けていた蔵馬に、びっと飛影の人差し指が向けられた。
「お前、その格好で俺を出迎えろ」

その一言に、煮えたぎっていた頭が一気に冷める。
「は?」
出迎えるって……
どういうことだと言いたげな視線で見つめてくる蔵馬に、飛影は天井を仰ぐ。まるで記憶の底から掬い出すように、ゆっくりと、棒読みでこう言った。
「おかえりなさい、お風呂にしますか、それともご飯にしますか………」
………………一体どんな番組を観てたんだ、お前は。
怒りを通り越して呆れ返った。
「断る」
それでも、はっきり、きっぱりと否定の意を示してみせる。
「何故だ。ここまでやったんだから同じだろう」
「確かにそうかもしれないが、やらないに越すことは無い。だいたい飛影、オレはもう貴方の望みを既に一つ聞いているんだ。これ以上のことを強いられる義務は、オレにはないと思いますが?」
蔵馬の言葉の弾丸による連続攻撃に、今度は飛影の顔が渋くなっていく。立場逆転。ここまできたら、もう飛影に勝ち目は無かった。
「どこへ行く」
勝ち誇ったような笑みを残し、扉に足を向けた蔵馬を飛影が呼び止める。振り返った顔は、いつも通り、余裕の笑みだった。
「もちろん、着替えにね。こんな格好いつまでもしてられないから」
そう言うと、駄目押しの一層深い笑みを残して、ドアノブに手をかける。が、しかし。
「待て!」
ドアの向こうに蔵馬の身体が出る寸前、飛影の右手がリボンを捕らえた。蝶々結びにされたそれは、引っぱられた勢いでするりと解けてしまう。
「飛影っ!」
不意打ちに慌てる蔵馬を見て、飛影の悪戯心が湧きあがった。そのまま蔵馬をひょいと抱き上げると、ソファまで運んで行く。
「ちょ、ちょっと……だから貴方の希望はもう聞いたでしょう!」
そのまま押し倒そうとする飛影の手を、蔵馬が慌てて制する。それを軽く捕らえて頭上で一纏めにしながら、いじめっこの表情になっている飛影が言った。
「ほう、ならお前は賭けに負けたにもかかわらず、俺に要求をするのか?」
もっともなことを言われ、一瞬詰まる。しかし、ここで負けては妖狐蔵馬の名が廃ると、蔵馬は反撃を試みた。
「し、強いていいものでもありませんよ」
だが、甘かった。
「止めるのも、強いられることではないと思うぞ」
「それは屁理屈というものですよ!」
「いつもお前がやっていることだぞ、蔵馬」
にやりと不敵な笑みに見下ろされれば、もう抵抗できる術は無い。次に賭けに勝った時には、絶対同じ目に合わせてやろう。そう思いながら、蔵馬は目を閉じ、降りてきた唇を受け止めた。

余談だが。翌日行われた賭けで、敗者は見事エプロン姿で例の台詞を言わされることになった。一体どちらがそんな悲惨な目に合ったのかは定かではないが、当然、それっきり賭けが行われることはなかったと言う。

END

2006?

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