どうせ見てるんだろうから、ただ単に、ちょっと妬かせてやろうと思っただけで。
本当に、他意はまったく無かったのだけれど、思わぬ方向にコトが進んでしまった。
「蔵馬……」
いや、だから、冗談なんだってば。
かつてこれほど混乱したことがあっただろうか。
冷たい壁に押しつけられた背中。
腰に回った手。
迫る唇と「Jr」の文字。
思いっきり殴ればそれで済むのだが、相手は高貴な身で、その上こうなってしまったのは自分自身のせいだから、そういうわけにもいかなかった。
「ち、ちょっと、待って下さいって……」
「どうした」
制止を促すが、彼――コエンマは、帯を解く手を止めることなく優しい声色で言う。
「安心せい。辛い思いはさせん」
本当に優しい笑みを向けられ、思わず引きつったものながら微笑み返してしまう。
と、同時に自分の帯がはらりと床に落ちた。
それを見て、蔵馬はさっと血の気がひく。
これは、まずい。本当にまずい。どうやら彼は本当に純粋なヒトだったらしい。
自分の言葉を素直に信じて、願いを承諾してくれようとしているのだ。
「慰めてくれませんか？」
ことの発端は、蔵馬のこの一言だった。
飛影とちょっとしたもめごとをしてしまった後、立った腹がおさまらぬまま、用事があってしぶしぶ霊界にやってきた。
「どうした、気分でも悪いか」
蔵馬はいつものようにポーカーフェイスを装っていたつもりだったのだが、コエンマは解かったらしい。
彼の部屋に入った途端、心配そうにそう、声をかけてきた。
「ええ、まあ……ちょっとね、飛影ともめまして」
「痴話喧嘩か」
コエンマはほう、と目を丸くすると、腰掛けていた椅子から立ち上がり、蔵馬のもとへ歩み寄る。
「そんな可愛いもんじゃありませんよ。……意外ですか？」
「む…まあ、な」
コエンマは曖昧に頷いた。
おそらくコエンマとしては、あの飛影相手にあの蔵馬が怒ること――例え腹を立てたとしても、衝突を避けるため、賢明な蔵馬が折れて、喧嘩というものにまで発展すること――など無いと思っていたのだろう。
確かに、いつもならそうだった。
けれど何故か、今回ばかりは蔵馬も冷静になれなかったのだ。
今思えば、どうしてそんなに腹が立ったのか不思議なほど、本当に些細なことだった。
そこから最終的に妖怪の本能に火がついて、本格的な戦闘になりかけた。
そこで蔵馬が時計の針を見て用を思い出し、半ば逃げるような形で霊界にやって来たのだ。
多分、飛影はまだ怒っている。
怒っているだろうが、彼のことだ、ぶつぶつ怨み言を呟きながらも自分のことを見ているに違いない。
蔵馬もまだ、虫の居場所が悪かった。
だからほんの少し、妬かせてやろうと思って言ったのだ。
「慰めてくれませんか？」
蔵馬の予想通り、コエンマはきょとんとする。
「茶でも飲むか」
「それも良いんですけど」
す、と妖しげな微笑みを浮かべ、蔵馬はコエンマの首に巻かれたマントに手をかける。
「ヒトハダが恋しくて」
途端、コエンマの顔に明らかな動揺の色が浮かび上がった。
「ば、バカ言うなっ！ワシはそういう趣味はないぞっ!!」
朱を上らせ、顔と手をぶんぶんと横に振ってうろたえる。
――予想通り。
「安心して下さい。オレ、結構自信あるんで。」
「――おい、まさか、」
「あ、やっぱり上の方が良いですか？」
「そういう問題じゃないわいっ!!」
叫んで、ばっと数歩後退する。
乱れた息とマントを直し、こほんと一つ咳払いすると、
「蔵馬よ、あまりワシをからかうな。
ワシはおぬしをそういう目では見とらんし、第一、おぬしに手を出せばワシの命が危うくなる」
真面目なヒトだ。それに賢い。――と、蔵馬は感心した。さすがは霊界を統べる者、と言うべきだろう。
これ以上追い詰めては、彼が気の毒だ。
「そうですか。まあ、仕方ないですね――……」
言って、少し顔を背け、目を伏せて、小さな息を吐き出す。いわゆる、�猖榲�に残念がっている顔�瓩澄�
これで冗談は終わり――……のはずだった。が。
「……そんなに、慰めて欲しいのか」
意外なコエンマの言葉だった。
「――……え？ええ、まあ……」
だから思わず、肯定してしまった。
それがまずかった。
「………仕方ないの」
小さなため息。そして僅かに迫り、壁に手をついた。間に蔵馬を挟んで。
「ワシの命は保障してくれよ」
言って彼は、咥えていたおしゃぶりを取った。
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