bitter・1

人間界は、もう眠りの時刻に入っていた。
静まり返った街の中を、闇に紛れて高く跳ぶ。額の‘眼’で、目指す部屋の明かりがついていることを確認しながら、家々の屋根を、音を立てることなく、軽く。
勘の良い部屋の主は、自分の来訪を予知しているかのように、椅子に腰掛け、手元の本に向けている視線を、時折ちらちらと窓の外にやっている。
自分の行動を読まれていることを何となく面白くないと感じながらも、足は確実にそこを目指して動いていた。

「いらっしゃい。今日は一体どんな相手と闘(や)ってきたんですか?」
相変わらず窓から土足で上がりこむ来客――飛影に苦笑を浮かべる。
開口一番から皮肉を浴びせる部屋の主――蔵馬に、僅かに眉を寄せながらも、飛影は数時間前に傷を負った左腕を彼に差し出した。
「これは…酷いな。ちょっとそのまま、動かないで待っていて下さい。すぐ薬を調合するから」
ベッドサイドに腰掛け、蔵馬が机の奥から医療器具を取り出す様を目で追う。
「まったく…もっと早くちゃんと治療しないと。もしもってこともあるだろう。百足にも医務室はあるんだから――」
手を動かしながら口もしっかり動かす蔵馬に、小さく舌打ちする。
確かに、医務室はあった。けれどそこはいつも迷い込んできた人間を介抱するので手いっぱいで、第一飛影は医者を信用していない。医者といえど所詮は妖怪。傷の手当てをすると見せかけて、毒を注入されるんじゃないかと疑ってしまうのだ。
だから、ちょっとした傷なら放っておくか、自分で適当に処置しておく。酷いものなら、こうやって人間界に来て蔵馬に診てもらっていた。
それは「とりあえず」信用されているということなのだが――本人、蔵馬はそれを解かっているのだろうか。
「つっ………」
「…痛みます?」
包帯を巻きながら、尚も蔵馬の口は動く。
「本当に、あまり無茶はしないほうがいい。‘報酬よりも命が大事’なんだからな」
それは、蔵馬の昔からの信条だった。
少しだけ真剣みを増したその瞳に気付いているのかいないのか、言われた本人はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向く。
そんな飛影に、蔵馬はため息をついた。
「はい、終わりましたよ」
言って、器具を戻すために立ち上がる蔵馬を何とはなしに追っていた飛影の視線が、ふと、先程まで蔵馬が向かっていた机の上に伏せられた本に止まった。
「ああ、会社の同僚に借りたんだよ」
手にとって物珍しげに眺める飛影に小さく笑って蔵馬が言った。
「よくある話だよ。ようやく結ばれた恋人の女の方が、突然の不幸でこの世を去る――」
引出しを閉め、飛影の手から本を受け取ってぱらぱらとページを捲る。
「残された男は、深い悲しみに落ち、自らも命を絶とうとするんだ」
「――お前、そんなもの読んで何が面白いんだ」
うんざりしたという顔で、飛影はベッドに身を投げる。
「面白いですよ。人間達のありとあらゆる関係、心情、愛――そんなものが交錯して、話が動いてゆく」
もとのページにしおりを挟み、本を机の上に置くと、蔵馬も椅子に腰掛けた。
「今オレが読んでるところでは、残された男の親友が、男の自殺をなんとか止めさせようと必死になってる。それが――」
す、と妖しげに細められた黒曜石の瞳に見つめられ、飛影の体が‘嫌な予感’にやや強張った。
「まるで、貴方とオレみたいで」


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