「殺してくれないか」
己の腕に深く赤く、刻み込まれた傷の、奥の奥へと。細い指先を差し入れ、薬を塗りこむ男の唇がそんなふうに動く様を、飛影は眺めていた。
「オレを、殺してくれませんか。飛影」
蛍光灯の下に白く浮かぶ五本の指。幾何の澱みもなく、それは慣れた仕草で傷口をなぞり続ける。肉の切れ目へと視線を落としたままの、瞳の色は飛影には見えない。ただ淡い薄紅だけが、鮮やかな笑みの形に歪んでいて、それが常と同じ響きで飛影の前に言葉を、並べてゆく。
「どうも最近、自分を抑えきれないことが多くてね。この身体を内側から食い破るような……そんな衝動に、駆られることが多くなった」
“バイオリズム”。その単語が脳裏に浮かぶ。あれはいつだったか。今夜のように傷を負ってこの部屋を訪れたとき、蔵馬の口から聞いたそれ。妖怪が持つ、冷酷で残虐な性。それがある一定の周期で強く騒ぐのだと、そしてその周期が、少しずつ少しずつ、短くなりつつあるのだと。そう話してみせた蔵馬は、やはり今と同じく白いベッドの上に腰掛け、笑っていたと、思う。
飛影が魔界で幾度となく耳にした伝説。冷酷無比かつ極悪無惨。凍てつく眼差しをした、銀色の盗賊・妖狐蔵馬。しかし人間界で出会ったこの男は、それとはまるでかけ離れていた。無益な争いを避け、その力は人間の保護のために利用する。敵に対して同情を寄せてみては、挙句己の身を危険に晒し。そんな花の蜜の如く生ぬるい甘さには、何度辟易させられたことか。
この男は、妖怪としての本質を失ったのだ。きっと生まれ直すときに、人間の女の胎へ置き去りにでもしてきたのだろう。飛影はそう思っていた。しかし事実は異なったらしい。この男の妖しの本能は、深い眠りについていただけだったのだ。それが今ようやく目を覚まし、その強大な力に釣り合わない脆い人間の器を破ろうとしている。とめどなき、血と殺戮への欲望。
喉の奥で、飛影は哂う。
「それが貴様の本性だろう、蔵馬。抗う必要がどこにある?」
明らかな皮肉を込めた言葉にも、飛影の腕に包帯を巻きつける手が止まることは、ない。
「衝動に、身を任せればいい。湧き起こる己の欲に忠実になれ」
人間の皮を被って生きる妖怪。人間か、化物か。自分が本当はどちらだったのか、いつの間にか忘れてしまっていた愚かな狐。人間を騙し。己を偽り。捻じ曲げ続けた真実が、ついに軋みを上げた。一度亀裂が入ってしまえば、あとはただ、脆く、儚く、崩れ落ちてゆくのみ。
どんなに真似ごとをしようとも、所詮人間は人間であり、妖怪は妖怪でしかない。蔵馬は妖怪なのだ。己と同じ、戦いの中にのみ生きることのできる存在。それこそが正しい姿であり、蔵馬は今、そこへと還ろうとしている。ただ、それだけのはずなのに。
「……あの人達を、傷つけるわけにはいかない」
なお頑なに、蔵馬は虚像を護ろうとする。真実を拒絶し、足掻こうとする。
「妖狐の力を制御しきれず、あの人達まで巻き込んでしまうかもしれない。見境をなくして手をかけないとも限らない。――……そうなってからでは遅いんです」
己の全てを投げ出そうと、いうのだ。
「――――知るか」
腹を煮るような苛立ちを、込み上げるままに吐き捨てる。蔵馬が“家族”と呼ぶ人間達。何よりも誰よりも、大切にしたがるもの。そんなものは知ったことではないと、飛影は唇を噛み締めた。そいつらが死のうが生きようがどうだって良かった。どうだって。
固く締めた包帯の結び目を、確かめるように撫でる。蔵馬の癖の一つだった。去ったあとも、くっきりと残るてのひらの感触。やわらかなそれを振り払うように、傍らの刀を取り飛影は立ち上がった。
「言ったはずだ。俺は誰の指図も受けん。殺したいやつを殺したいときに殺す」
「オレを殺したいとは思いませんか」
窓へと向かいかけた足が、止まる。飛影を見つめるぬばたまの双眸が、見透かすようにゆっくりと、瞬いた。
蔵馬を殺す。そんな考えに至ったことは、一度や二度ではない。こんなふうに己を誑かしては弄び、心をかき乱す蔵馬を、何度殺してやろうと思ったことか。嘲笑うその首を、振るった一刃で掻き斬る様を。その華奢な身体を、黒い炎が舐め尽くし呑み込む様を。幾度となく思い描いては、しかしその度に、忘れていた。
「飛影」
己の名と共に歯の間からちろちろと覗く、目障りな赤い舌。下らない戯言ばかりを宣うこれを斬り落としてやれば、どんなに爽快なことだろう。そう思う今もやはり、飛影がその手の中にある刀を抜くことはない。何故。頭の奥で問う声を、飛影は黙殺する。答えなど、得たところで意味を為さない。
「殺してくれなどと言う腑抜けた貴様に興味はない」
嘘ではないその言葉を理由に置いて、飛影は背を向けた。
「俺に面倒事を持ち込むな。他を当たれ。お前の首を狙っている奴はごまんといる」
「そんな輩に頼んだら、あの人達が尚更危険に晒されることになる」
「なら幽助にでも頼むんだな」
「幽助が呑んでくれるわけありませんよ。むしろ否が応でも引き止めようとするだろうね。――……でも、貴方はやってくれるでしょう」
衣擦れの音と、近づく気配。
「貴方なら、オレを殺してくれる」
振り返った飛影の前にいたのは、酷く冷たい笑みを浮かべた男だった。その背後で膨らんでゆく、抑えきれぬ巨大な妖気と、殺気。思わず刀の柄へと手を伸ばした飛影の耳元へと、蔵馬の声が氷の花弁で撫でるようにささめいた。
「衝動に呑まれた俺が手を掛けるかもしれないのは、俺の大切な人達だけとは限らない。他の人間も。飛影、貴方のことも。そして、貴方の、大切なものも」
飛影の瞼の裏を、一人の少女の影が掠めた。人間界に身を置く己の片割れ。それが薔薇の棘により粉々に引き裂かれていく、幻影。
踵を返した蔵馬は、そのまま元通りベッドの縁に腰掛けた。立ち尽くす飛影を満足気に見上げるその男には、あの身を刺し貫くような妖気も殺気も既にありはしない。
「今すぐにとは言いません。貴方の気が向いたらで構わない。殺したくなったらいつでもどうぞ」
そう言っておどけるように首を傾げる蔵馬は、無防備そのものでしかなかった。今この刀を抜けば、その頭は呆気なく地に落ちるだろう。野の花の一輪を指先で摘むように、容易く。そのことが尚更飛影を苛立たせ、柄に掛けた指の力を強くする。
自分なら殺してくれる?――……勝手に決めるなと、飛影は奥歯を噛んだ。己がどうするかを決めるのは己だけだ。絡め取ろうと伸ばされる狐の手になど、そう易々と乗ってやるものか。絶対に。
「必ず殺して下さい。オレがあの人達を傷つけないように。――待ってますよ、飛影」
溶けるような微笑みに、飛影が答えることはない。代わりに、詰まらない台詞をいつまでも垂らし続ける口の中へと、握り締めていた刀の鞘を押し込んだ。


約束

2011.09.12



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