眠りの世界から、意識が浮上する。その隙をついて、オレはぐっと腰に力を入れて重い身を起こした。昨晩は目覚まし時計をセットしないままベッドの中へ入ってしまったことを、夢うつつの頭は覚えていた。目が覚めた時に起きておかなければ、もう一度意識を沈めたら次はいつ戻ってこられるかわからない。貴重な休みを少しでも無駄にしたくないというのは、忙しい現代社会人に共通の感覚だろうか。
そっとベッドから足を下ろしかけて、そこで丸くなる存在を思い出す。床に敷かれた布団の中で、昨夜遅くに傷を負って訪れた飛影が眠っていた。確か、今日が終わる頃まではここに留まると言っていたっけ。あどけない寝顔にそっと頬を緩めながら、少し態勢をずらし、彼の脇の冷たい床を踏んで窓際に寄る。カーテンを引くと、待ちかねたかのように部屋の冷気を太陽の光が浸食した。外は快晴だった。絶好のお出掛け日和り、というやつだ。突き抜けるような青い空。しかしそれに反し、いつの間にか上体を起こし、朝日に射ぬかれた目を眇める彼の機嫌は、どんよりとした灰色をしていた。
「いい天気だし、せっかくだから今日は飛影も一緒に買い物にでも行きませんか」
最近、飛影が日中にここを訪れたとき、自分に出かける用事があれば、一緒に来るよう誘うようにしている。飛影が人間と必要以上に馴れ合うことを好まないことは解かっているが、人間界にももっとたくさん面白いものがあるということを、オレは知ってほしかった。
しかし彼はかたくなにそれを拒んだ。だから仕方なく、オレは彼に留守番を頼んで一人で出かける。それが常だった。案の定、今日も飛影はオレの誘いに、ますます眉間の皺を深くする。
「財布が欲しくて。この頃に買う財布は春財布と言って」
「知るか」
一刀両断。どうやら灰色どころか、稲光が走るほどらしい。参ったな。もとより彼にとって好ましい誘い出ではないだろうが、それだけではない。どうも彼は、晴れた日は機嫌が悪い。
飛影がここを訪れるのは、多くは日が落ちてからだが、日中に訪れる場合は、よほどの緊急事態でない場合はおおよそ雨の日だった。たまたま、彼がやってきたあとに雨が上がった日や、夜遅くにここを訪れて、一晩休んだ翌朝が晴天だったときは、それはそれは酷い有様なのだ。今朝のように。
オレもさすがに遅い時間や、雨の日に傘を差してまで出かけるのは面倒だから、大抵は家の中にいる。太陽がその身を隠している間は、飛影とオレとだけがいるこの部屋で、飛影は窓際に腰掛けている。時折オレが一方的に投げかける会話に相槌を打ちつつ、太陽の支配から逃れた外の景色を眺めるのだ。その気配はいつもよりどこか静かで、穏やかだった。
一度だけ、どうしてもその日のうちに赴かねばならない場所があり、オレは訪れていた彼を家に残して雨の中外へ出たことがあった。急ぎだったし、彼を誘うことはしなかった。その時は帰宅すると、一体何があったのか、彼の機嫌が頗る酷くなっていたが……例外はそれだけだ。あとの場合、彼の機嫌と太陽の存在は直結している。
魔界には太陽の光は射さない。オレ達妖怪には、あれは確かに眩しくて、熱くて。すべてをその光のもとに暴きだされるような錯覚さえ覚える。飛影も太陽の光を嫌悪しているのだろうか。
太陽のもとに出ることも、人間と関わることも飛影自身が望んでいないのであれば、あまり無理強いするのは良くないのかもしれない。しかし、今日買いに行かないと、来週以降は予定が詰まっているし……
「仕方がない。なら飛影、悪いけれど留守番を……」
クローゼットから着替えを選びながら言いかけた瞬間、背後で大きな雷が一つ落ちた。ような気がした。
一体何がそんなにお気に召さないのだろう。太陽を睨みつけている飛影から立ち上る殺気に近い不機嫌に、適切な対応方法を見出せず立ち尽くす。
いつもは彼の素直な言動をよく理解できているつもりだが、時々こうして、解からない時がある。オレの気付いていない、彼の機嫌を左右する要素が、どこかにあるんだろうか?これほどまでに、大きく感情を揺さぶるような……
「それは」
思考の海に潜りかけていたオレの耳に、押し殺したような微かな声が届く。
「今日行く必要があるのか」
「ええ……そうですね。今日以降は、どうも暇がありそうにないので……」
答えながら、もしかしたらオレが留守番を強いることが飛影を不機嫌にしているのではないかと思い当たった。彼は拘束されることを嫌う。オレが家を出ている間、自由に動くことができないのが気に入らないのかもしれない。それならば、好きなときにここを出ていっても良い――オレがそれを言葉にする前に、
「夜になったら」
また飛影がぽつりと声を落とした。
「行ってやってもいい」
オレは一瞬、その意味を掴みかねる。夜、だったら?
「貴方も一緒に街まで来るんですか?」
信じられない思いで問うと、わずかに視線を揺らした飛影が唸るように答えた。
「そう言っているだろう」
予想外の答えだった。飛影が人間の街に出ると言い出す日が来るなんて。
「夜になるまでは?」
晴れているのに外に出ないのか――そう思ってから、ふと、オレはここしばらく、晴れの休日は出かけることが多かったのだと気づく。高校を卒業して、就職してからだろうか。一人暮らしをするようになったこともあって、平日は家事や仕事に追われ、買い物に行ったり幽助達に会ったりする時間はどうしても休日でしかとれなかったせいだろうか。
伏せられていた飛影の目が、ゆっくりとオレの方を向く。瞳の奥を陽の光が満たして、二つの赤を透き通らせた。その色を、オレは随分長い間、見ていなかったような気がする。
「ここにいればいいだろう」
それ以外は許さない。真っ直ぐにオレを見つめる彼から返ってきたのは、そんな響きだった。
「……そうですか」
「そうだ」
「そうだね」
「………貴様」
「はい、ええ、わかりました」
両手を挙げるオレに、ふん、と鼻を鳴らした彼は、しかし先程までの機嫌の色ではなかった。いつの間にか雷鳴は止み、雲の切れ間からわずかに青い空が覗いている。空に太陽があるのに、彼の機嫌がこんなにも良いのは、ここしばらくなかったことだ。
――どうして?
思いかけて、ふと視界の端に映った時計の針が、予想していたよりも進んでいることに気づく。
「おっと、いけない。もうこんな時間だったのか……」
「おい……」
部屋を出ようとするオレの背を、低い声が引き止める。
「洗濯、しないとと思って。冬だから早く洗って干さないと、貴方の服が乾かなくて困るでしょ」
貴方が。言外に含めたその意味を正確に読み取ったらしい彼は、ふてくされたように再び布団に身を投げてしまった。予想通りの反応に、思わず緩む頬を隠して、飛影、と名を呼ぶ。
「その前に、朝飯にしましょうか」
扉を開けて促すと、もぞりと布団から這い出た飛影がしぶしぶオレについて階段を降りてくる。
飛影がいるときは、今度から出かけるのは夜にしようかな。それで、彼がオレの誘いに乗ってくれるのならば。
せっかくだから、いろんなものを飛影に見せたい。気に入るものが見つからないと言い訳をして、たくさん店を回ろう。夕飯は外で食べるのもいいかもしれない。日が沈んだら、すぐに出発して……
わくわくと浮き立つ心を自覚しつつ、それを快く思いながら、オレはキッチンコンロの火をつけた。


Sunny holiday


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