人の命は儚きもの。
とても脆く哀しいもの。
だからこそとても愛しくて。
だからこそとても美しくて。
オレはいつだって、それに恋焦がれていた。

サヨナラ、イトシキヒト

さあ、と快い風が、病室の白いレースのカーテンを揺らす。月明かりに染められて、それは青白く幻想的にきらめいた。
少しずつ少しずつ、視界が揺らいでくる。決して覚めることの無い眠りが訪れようとしている。
(ああ…そろそろか…)
不思議と恐怖は無かった。むしろ満たされていた。もう五十年も前に、一度死を覚悟した。治らないと言われた身体。それが突然、何の前触れも無く病から解き放たれた。――奇跡――そう言うしかなかった。
目覚めたとき、朦朧とする意識の中で見つけた、愛する我が子の顔。僅かにその大きな眼が潤んでいたっけ…。
「しゅういち…」
浮かんだ遠い日の愛息の姿に呼びかける。長い髪に縁取られた、整った少年の顔。自分は、それ以上の彼を知らない。

ある夜、彼は家に帰らなかった。
「母さん、今日はちょっと帰れないんだ。でも、絶対帰ってくるからさ、心配しないで待ってて。…必ず帰ってくるから」
いつもの帰宅時間を少し過ぎた頃、息子はそんな電話をよこしてきた。何言ってるの、どこにいるの…とは、何故か言えなかった。真剣な息子の声に、無意識のうちに肯定の言葉を返していた。電話を切ったあとも、息子は必ず帰ってくると…心の底から信じてやまなかった。
一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一年経って、十年、二十年と月日が過ぎても、息子の言葉を信じる心は変わらなかった。

(――最期に…)
す、と一筋、しずくがその長い年月を生きた彼女の白く乾いた頬を流れた。それは光りながら道をつくり、白いシーツに吸い込まれる。
(最期にもう一度、あの子に……)
今でも、息子は帰ってくる、戻ってくると信じている。けれど、自分はそれを迎えてやれそうに無い。最期にもう一度、あの笑顔が見たい。永い永い空白の時の間に、きっと変わってしまっているだろうけれど。姿が変わっても、自分の愛する息子であることには変わりは無いから……せめて、最期に……
「――かあさん…」
あの頃の彼のやわらかな声が自分を呼んだ。閉じかけていた眼をゆっくりと押し上げ、息子の幻影を探す。
「かあさん…」
「しゅう、いち…?」
残った力を振り絞って伸ばした腕を、温かな手が捕らえた。驚き、思わず見開いた視界いっぱいに愛しい息子の姿が映る。
「母さん、ただいま」
彼はそこに立っていた。遠い日の、彼女が知っている笑顔のままで。
「秀一…!」
握り締めた手が温かい。この温かさを、一体どれだけの間待ち続けていたことか。
「秀一…帰ってきたのね、しゅういち…」
「言っただろ?ちゃんと帰ってくるって」
「そうね…そうだったわね…秀一は約束を破ったりしなかったわ…」
「そうだよ、母さん」
くすくすと笑うと、息子はそっとその手で母の瞼を覆った。まるで親が子をあやすように、優しくそこを撫でる。
「だから、安心して眠りなよ。起きるまでここにいるからさ…ね?母さん…」
握り合う手に少しだけ力をこめて言う。まるで自分がここにいることを示すように。
「そうね…秀一がいてくれれば…母さんあんしんだわ…」
ゆっくりと包み込むようにやってくる睡魔に導かれるまま、意識を沈めていく。息子の手の温かさが心地よい。
「……しゅういち」
「ん…?」
愛撫の手を止めぬまま、息子は答えた。
「おかえり……しゅ…ち……―――」
――ふわりと笑って、彼女は眠った。


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