08. 境界

「ふう……」
肌にはりつく自分の髪を煩げに掻き揚げながら、蔵馬は身を起こした。重い頭を巡らせて、時計に目をやる。もう間もなく日が沈む頃だ。そう思った瞬間、再び体がベッドに沈む。
「……飛影」
なお熱い腕で引き寄せ、抱き締めてくるその背中を、ぽんぽん、とあやすように軽く叩きながら囁きかける。
「飛影……もう時間がない。あと四時間くらいで、母さんが帰ってくるから…っ」
それがどうした、というように唇を塞がれる。
「…っ飛影、」
絡んでくる舌から逃れ、溜まった吐息に交えて、今度はやや非難めいた声で呼んだ。それに、不機嫌を湛えた視線が上がる。
「観るんだろう、ビデオ。こんなことしてる場合じゃない」
「……ビデオ?」
何のことだ、と眉をひそめる飛影に、蔵馬は呆れた。
「黒の章、ですよ。そのために家に来たんじゃなかったのか」
その単語に、飛影はようやく蔵馬から手を放した。

黒の章。人間達が犯してきた罪の中でも最も残酷で非道なものを集めた、霊界の極秘テープである。それを観た者は、五分ともたず人間の見方が変わるという。
そんなものを観たいのか、このひとは。ビデオデッキにテープを入れながら、蔵馬はちらりとソファに座っている飛影に目をやった。
確かに、興味はある。御手洗の話によれば、やはり相当過激な内容らしい。一体どんなものが映し出されているのか。気にはなる。が。
「夕食の前にこれを観るのは、勘弁してもらいたかったかもしれないな」
「なら、先に喰えばいいだろう」
……それはそれで、気分が悪くなりそうだ。飛影の向かいに自分も腰を下ろし、蔵馬はリモコンの再生ボタンを押した。
ザ―――――……
数秒の砂嵐があり、その後すぐに映し出された、少し滲んだカラー映像。
「念写の一種か」
「……らしいね。相当な技術だ。動画として映すなんて……さすがは霊界、と言ったところか」
滲んではいるが、何が映し出されているのかははっきりと観えた。
手枷をはめられ、一列に並んだ子供。鞭、あるいは斧といったものを持ち、薄ら笑いを浮かべた人間。並んでいる一人が呼ばれ、画面中央に置かれた台に上がったところに鞭がとび――……
響く断末魔。
蔵馬は、無表情のまま音量を下げた。
これが恐らく、御手洗の言っていた「殺されるために並んでいる子供の列」だろう。確かに、普通の人間が観るのには刺激が強すぎる。
「ふん……人間どもめ」
嘲るように鼻を鳴らすと、飛影は蔵馬からチャンネルを奪った。
「こいつらと妖怪とじゃ、やっていることに大差はないぜ」
「確かに」
趣味の悪い下等妖怪の間では、一般的に行われている。自分達も、何度となく目にしてきた光景だ。
飛影が早送りを押したことで、次から次へと‘人間達の罪’が映し出されていく。首が飛ぶ。血が流れる。今度は胴が切り離され、腸がはみ出した。二人はそれを、眉一つ動かすことなく見つめていた。冷めきった眼で。
一瞬、映像が途切れる。
そこで飛影はもう一度再生を押した。
浮かび上がるようにして映ったのは、先ほどまでとは別の場所だった。壁にはりつけにされている何百という妖怪。その一人ひとりに、人間達が「手を加えて」いく。長い耳を切り落とし、二つあった目を一つにして――
『いやぁ―――!やめてぇ――――!!』
目にナイフを突きつけられた美しい少女が、恐怖に満ちた悲鳴を上げる。男はそんな少女の反応が面白いのか、ナイフが眼球に触れるほど近付けては少し遠ざけ、からかうように左右に振った。
『いや…助けて…おねがい、たすけ……』
泣きながら懇願する少女ににやりと笑いかけ、男はナイフをゆっくりと引っ込めていく。少女の怯えた表情が僅かに安堵した、瞬間。鈍い音がブラウン管の向こうから聞こえた。大きく目を見開いた少女のわななく唇から、赤いものが溢れ出す。男の、ナイフを持ったのとは反対の手に握られた一振りの包丁から、同じ赤が滴り落ちる。それは、深々と少女の腹に刺さっていた。
『……く…くっくっくっく…』
喉の奥で笑いながら、男が包丁を引き抜いた。そのまま振りかざし、今度は額の中心に突き刺す。
『くくく…あはは…あっはっはっはっはっはっはっは!』
引き抜き、突き立て、また引き抜いては突き立てる。のけぞって笑う男の狂った声がこだまする。
『あっはっはっはっはっはっはっは!あーっはっはっはっはっはっは――!!』
ザ―――――……
沈黙の中に、テレビから流れる砂嵐の音のみが響いた。
「………ちっ」
忌々しげに舌打ちした飛影に放られたビデオのリモコンが、ソファの上で弾み、カシャン、と少々派手な音を立てて床に落ちた。
「……飛影、物の扱いは丁寧に」
それがくるくると回りながら床を滑り、植木蜂に当たる様を視界の端で見つめながら、蔵馬は言った。
二人とも、暫らく何も話さなかった。ただ黙って、テレビから流れてくる砂嵐の音を聞きながら、冷めきった気持ちでどこか遠くを見つめていた。
やがて、時計の針がもう夕食には少し遅い時刻を指していることに気付いた蔵馬が腰をあげ、テレビを消した。床に落ちたリモコンを拾い上げ、デッキからビデオを取り出す。
黒の章。
そう書かれた文字に一瞥を与え、飛影に差し出す。その腕を、ビデオテープごと奪われた。されるがままに倒れこんだ身体を抱きとめられる。
「……結局、人間と妖怪の境界なんていうものは、‘造り’だけなのかもしれない」
飛影の肩に顔を埋めるようにして、蔵馬は呟いた。
「発する‘気’の種類や、外見や、産まれ方や、身体の構造や……そんなものが違うだけで、その根底にあるもの――持っている清らかさや汚さは、人間も妖怪も何も変わりはしない」
だから、俺たちは変われたんだ。これから、もっともっと変わる。変われる。
「ふん……」
髪をすきながら、飛影が小さく言う。
「そうかもしれんな」

「さて、と……」
立ち上がった蔵馬が、髪を軽くうなじで纏めながら台所へ向かう。
「参ったなあ…今日の夕飯、肉料理だったんですけど……飛影、食べられます?」
いたずらに笑って振り返ると、飛影が露骨に嫌そうな顔をする。それを見た蔵馬は思わず吹き出した。
「オレも嫌ですよ。仕方ない、野菜炒めに変更するとしましょうか」
うーん、母さん楽しみにしてたみたいだけど……
胸中で母にごめんねと謝って、蔵馬は冷蔵庫を開けた。

2004〜2006?

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