「、飛影」
人気のない公園に植えられている低い木。そこに咲いた一輪の白い花へと、無防備な指が伸ばされた。それを遮ろうと呼んだ声は、しかし役目を果たさなかった。一瞬の後に離れたその先から、ぷくりと赤い珠が盛り上がり、弾けて流れ落ち、彼の手のひらを覆う真っ白な包帯を汚した。
「ノイバラ、と言ってね。こんな風に硬い棘がたくさんあるから、気をつけて」
「……薔薇?」
「ええ、これも薔薇の一種です。可憐でしょう?」
飛影はオレの言葉を軽く鼻であしらって、その手にこびりついた赤い汚れを舐めとった。植物の棘があけた些細な傷などは、とうに塞がっていた。



******

ようやく身体中に根を張ったシマネキ草をすべて取り除き、シャワーで血を洗い流して部屋に戻ったオレは、そこに広がっていた光景に息を詰まらせた。
真っ赤に染まったベッドシーツ。その中心で、刃先の汚れた剣を握ったまま胡座を組んでいる飛影。彼の胸は、中心からぱっくりと縦に割り開かれて、格子のように並ぶ骨の向こう側で核が脈打っている様がありありと晒されていた。
「何をしているんだ、飛影……!」
叫んだ己の声に目を覚ました身体が動いた。ぼんやりと己の体内を覗き込んでいる飛影の肩を掴む。離れた肉と皮膚を元通りに引き合わせ、繋ぎ目に己が使うために用意していた薬を塗り込む。すぐに組織同士が結合を始めて、オレはほっと息を吐いた。今日はずっと結界内で休んでいた効果か、飛影の妖力はまだ充分ではないものの回復していたらしい。
「これは、どうしたんだ、一体何が……」
問う自分の声が、わずかに震えているのを感じた。
「胸の中に痛みがあった」
ややあってぽつりと飛影が返した答えに、オレはやはり、と思う。
「自分でやったのか」
部屋に、他の妖怪の臭いはない。この部屋に到着してすぐに張った結界にも、破られた形跡はない。そして飛影が握っている剣。考えられる可能性は一つしかなかった。
「今日の試合の最中からだ。何時まで経っても収まらん。棘でも刺さっていやがるのかと思って、確かめた。それだけのことだ」
こともなげに、飛影は言う。確かに、この程度で死ぬことはない。自ら突き立てたであろう彼の刃も、内蔵を傷つけることなく、表面を覆う皮と肉だけを綺麗に切り離していた。それでも妖怪の弱点である核を剥き出しにするなどというのは、自殺行為以外の何物でもないが。
「それで、痛みの原因は見つかったんですか」
今度は、答えはなかった。オレはそれを、否定だと取る。
「まだ、痛みますか」
「……そうでもない」
そういうと、と言った風に、飛影は首をかしげた。寄せられた眉に、困惑が見えた。
押し当てた手のひらの下で傷が塞がっていくのを感じながら、オレは思考を巡らせる。日頃、多少の傷などお構いなしの飛影が気にするような痛みだ。きっと相当強いものだったのだろう。痛みの原因として、考えられるのは傷か、病か、あるいは呪いの類、だが……傷なら、目視でわかるだろう。病も、大抵は疾患部位に何か異常が現れているはずだ。胸を開いてまで確認して見つからなかったのだから、おそらく原因は他にある。あとは呪いだが、そんな気配も特に感じられない。
どうやら、オレにもお手上げらしい。より専門的な知識を持った者に診てもらう必要がありそうだと、オレは判断した。
「医者を連れて来ますか」
「いらん」
強い拒絶。ここにいる医者は大会の主催者が手配したのだから、信用できないのは当然だが。
とにかく、痛みが収まったのならば、しばらく様子をみる方がいいだろう。
「今後また痛んだり、他にも何か異常を感じたら、報告して下さい。オレで良ければ診ますから。とにかくもう金輪際、自分でこういう無茶な“診察”はやめてくれ」
「貴様に何の関係がある」
自分の行動を他者に支配されることを嫌う彼が、怒りを顕にするのは当然だった。しかしオレは、それを受け入れるわけには行かない。
「結界内とはいえ、周りを敵に囲まれている場所でわざわざ自分から手負いになってどうするんだ。殺してくれと言っているようなもんでしょう」
その言葉に込めるのは感情ではない。ただの真実。それだけでいい。それのみが、この孤高の意思を揺るがせられるのだから。
「…………」
無言で目を逸らした彼は、どうやら聞き入れてくれたらしかった。
いつの間にか、彼の胸の傷は、表面的には随分塞がってきていた。もう大丈夫だと判断して圧迫のために当てていた手を放し、薬を染みこませたガーゼを当てて清潔な包帯を巻き付ける。これで数時間後には元通りになっているはずだ。
「次の試合、観に行くでしょう?まだ少しだけ時間がありますから、休んだらどうです」
血の海と化した飛影のベッドと並んで置かれた、自分の方を指さすと、
「貴様も手負いだろう」
予想外の答えが返ってきた。遠慮とも気遣いとも、皮肉とも取れるそれに、オレは微笑んだ。
「今の貴方よりはましですよ」
「……………」
「ほら、早く向こうへ移って。シーツとベッドを新しいものに取り替えてもらわないと、今夜オレがゆっくり休めないでしょう」
血で重くなったシーツを無理矢理引き剥がそうとする動作に、飛影は観念したようだった。隣のベッドに軽い身のこなしで跳び移る。清潔なシーツに横になると、すぐにその瞳は閉じられ、深く穏やかな息を吐き始めた。
あどけない寝顔。シーツを畳みながらそれを眺めているうちに、少しずつ緩んだ心から、思わず溜息と共に隠していた感情が漏れる。
「あまり、無茶しないでくれ」
貴方が傷つくと、オレの胸が痛むのだから。

ノイバラ



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