肩に柔らかな感触がかけられるのを、目を閉じたまま受け止めた。やがて遠ざかる気配に気づかれないように息をつく。暖かな布からは、蔵馬の匂いがした。

“しあわせ”になってほしい、と蔵馬は言った。
俺にとって無縁のことばだった。“しあわせ”とは何なのか。何が俺にとっての“しあわせ”に当たるのか。そんなことは、考えたこともない。
己の望みが満たされた状態を、“しあわせ”と、そう呼ぶのか。
ならば、退屈しなくてすむこと、それが俺にとっての“しあわせ”なのかもしれん。
強い奴と闘うこと、自分の力を高めること――……
少しだけ考える。だが、やはりよく解からない。

ただ、俺は蔵馬を“あいしている”のではない、ということは、何となく、解かった。
俺には、あいつの“しあわせ”など、願えない。

あいつは“今”が“しあわせ”だと言った。
あいつが人間たちと共にある“今”が。

あいつが“あいしている”もの。
俺を裏切り、自らの命を投げ捨ててまで守ろうとしたもの。
何度壊してやろうと思っただろう。
あいつがその腕の中に抱き締めて放さないものを、力尽くで奪い取ってめちゃくちゃにしてやりたいと。
だが、できなかった。
そんなことをすれば、あいつはおそらく俺を殺そうとするだろう。
俺に向けられる瞳は何色だ?憎しみ、悲しみ、怒り、軽蔑――……いずれにせよ見たくない。
一度くらいは本気でやり合ってみたいとも思う。全力で命を奪い合ったとき、どちらが生き残るのか試してみたい。
だが、そんな目をしたあいつと闘っても、きっと面白くないだろうと思う。
あいつが他の何かに囚われていることも面白くないが、それよりももっと、つまらないだろう。
だから俺は、いつまで経ってもあいつを手に入れられずにいる。
それでも、いつか機会は訪れる。
そう思っていた。


一年前。
あの地図を見つけたとき、浮かんだのは蔵馬の顔だった。その地図が示していたのは、盗賊妖怪ならば喉から手が出るほど欲しがる貴重な魔具の在処だった。
当然蔵馬も興味を持つに違いない。長い旅になるが、あいつがいればきっと役に立つし、退屈しないだろう。
だが、あいつはあっさり俺の誘いを断った。盗賊としての本能さえ、人間に奪われてしまっていたらしい。
もはや、あいつは完全に人間のものになってしまった。
指の間から、やっと掴んでいた一握りさえ、こぼれ落ちていくのが見えた。

手に入らないならば捨ててしまった方が煩わしさも消える。
別の何かを求めていれば、あいつに対する興味も消えるかと思った。
ただひたすら、宝を求めて魔界を駆け、剣を振るっていれば、あいつのことを考えなくてすむと。
だが、そうはいかなかった。
ふとした瞬間に、蔵馬という存在が俺の中に蘇る。
あいつの顔を、声を、匂いを、髪の柔らかさを思い出す。あいつのことを考える。こんな時にあいつがいたらと。
不意に、左腕が疼いた。少し前に負ったものだ。
そうだ。この傷を負った時も、いつもならばすぐに治るものがいつまでも血を滲ませていた。理由を考えれば、いつもはあいつがすぐに手当をして寄越すからだった。それに気付いた途端、傷口に薬を塗るあいつの指の感触が呼び起こされて、傷口よりも胸の奥が疼いた。


結局目的を果たしてすぐに気づけば人間界にやってきて、俺はあの窓を開けていた。
あいつは一年前と変わらない姿でそこにいた。微笑って、「おかえり」だなどと言って。
そんなだから、欲しくなるというのに。

酷く渇いていた。煽られるままに求める。だが、触れれば触れるほど、渇きは増した。
どれだけあいつに俺の痕を残しても、何の証にもならない。
どれだけ身体を深く繋ぎ合わせても、あいつを留める鎖にはならない。
それでも、俺は蔵馬が欲しい。
そう、強く思った。



「飛影」
いつの間にか眠りの底に降りていた俺を、小さく呼ぶ声がする。それに誘われるままに、俺は目を開く。
あの時も、あいつは俺を呼んでいた。
耳の奥を甘くくすぐる、ほんの微かな囁きだった。それでも、あいつが俺の名を呼ぶ音はいつだって聞こえている。
そんなことを知らないあいつは俺を起こそうと、ベッドの側までやってきて俺の肩に触れた。
「飛影、もう少ししたら母さんが帰ってくるから、オレは下に降りますね」
ああ。
やはり俺はこいつの“しあわせ”を願ってやることなど、できない。
「日付が代わる頃には戻ってくると思うけど、どうしま――」
言い切る前に、その身体を捕らえる。
抵抗を紡ぎかける唇を塞いだ。
強く強く。
どんな花よりも甘いそれ。
このまま喰らってやれれば、どんなにいいだろう。


俺はおそらく未来永劫、蔵馬に告げることはない。
あいしている、などと。



2010.05.17



2



携帯...←戻
PC...ブラウザを閉じてお戻り下さい

inserted by FC2 system