「あいしている、」
背後からの不意打ちは、その衝撃でオレの身体を激しく揺さぶった。本のページをめくる指が跳ね、たくさんの黒い虫のような文字がバラバラと音を立ててあっという間に走り去った。
死に際の太陽が流した血溜まりのような光の中に、酷く歪んだ形で床に落ちた本。そこで語られていたのは何だっただろう。丁度物語の佳境だったはずなのに、もう、何も思い出せない。
「とは、どういう意味だ?」
先の言葉にそう、淡々と付け加えた彼は、夢の中にいたのではなかったのか。ひとのベッドの上に我が物顔で寝そべって、寝息を立てていた貴方。だからオレは大人しく、昨日買ったばかりの話題作を読み始めたのに。
いつの間にか開かれていたその大きな三つの目は、まっすぐにオレのことを見つめている。
一体いつから、オレのことを見ていたのだろう。赤い瞳。痛いほどに、真摯な。
あの夜も、確かに眠っていたはずなのに、まさか、
「……何ですか、突然」
起きていたの、だろうか。
「この間、言っていただろう」
「………………………」
本を拾い上げる仕草は、自然だっただろうか。
そう頭の片隅で思いながら、オレは必死に逃げるための術を考えている。どうすれば、この状況を最小限のダメージで終わらせられるのか、を。
「――どういう意味って……そのまま、ですが?」
言葉少ない彼が放った疑問の真意を正確に汲み取るために、わざとはぐらかしてみせる。
こうすれば、彼は苛立って問いを重ねてくるはずだ。
「だから、それはなんだと聞いている」
そう、こんな風に。
相変わらず少ない単語だが、それでも解かる。
彼にとって耳慣れない、人間たちが使うその言葉。その意味を、彼は知りたがっている。
大丈夫だ。まだ、かわせる。
くっきりとついてしまった本の折れ目を伸ばして、机の上に置く。
嘘はつけない。だが間違っても、余計な情報を漏らしてはならない。
この問いに、如何にして答えるか。それに飛影はどう反応する?
思いつくありとあらゆるパターンをシミュレートして、オレは選び出したその一つの賽を、投げる。
「………幸せになってほしい相手に言う言葉、ですかね」
顎に手を当てて首を捻る、という考える素振りをしながら、オレは彼の様子を、視界の端で余すことなく読み取る。聴覚を研ぎ澄まし、彼の呼吸の変化さえ逃さない。
彼はベッドの上に胡座をかき、眉をしかめて窺うようにオレを見ている。オレがからかうと、彼はいつもこの表情をする。
予想通り。
彼はこれを、つまらない戯れだととってくれた。
「オレはね、飛影に幸せになって欲しいんです」
畳み掛けるようにそう言ってオレは彼を振り返り、わざとらしい笑みを向けた。
そうすれば、彼は「下らん」だとか「俺にはそんなものは必要ない」などと言って、そっぽを向いてしまう。そこへオレが彼の妹の話題を持ち出して、彼は激昂する。そのまま下らない疑問はあっという間に彼方へと置き去りにされ、それで終わる。
はずだった。
「………………………」
彼は沈黙した。
ただじっと、真っ直ぐにオレを見つめている。
静かな瞳だった。
だが、逃れることができない。
彼の視線は、まるで邪眼の呪縛のように、オレの四肢をきつく縫いとめる。
「なら貴様は、」
まるで永久のような一瞬の後、彼はそれを問うた。
「母親のことも“あいしている”のか?」
こんなことは、予想していなかった。
足元が揺れる。
「……ああ、そうですね。母さんには、幸せでいてほしい。もちろん、義父や義弟にも」
やっとそう答えるオレの思考回路は、既に彼の不意の一撃で砕かれていた。
バラバラに霧散したそれを、必死に拾い集めて組み直そうとする。だが、なかなかパーツが見つからない。
次は、どれを組み合わせればいい?どれを選べば、正しい結果へと繋がる?
震える指で拾い上げる欠片は、どれも求めている形ではない。
困惑の最中にあるオレに容赦なく、彼の問いかけは続く。
「お前の“しあわせ”は、何だ?」
どうして、と思った。
何故、そんなことを。
震えだしそうなてのひらを背中に隠して、オレは笑ってみせた。つもりだった。
「―――……オレは、“今”が幸せですよ」
制御不能に陥った頭をめぐらせて、オレは辛うじてそう答えた。
あの人がいて、家族がいて、共に戦った仲間たちがいて。
そして、貴方がいる。貴方がこうして、ここへ来てくれる。
そんな“今”が、本当に幸せだと思う。
だが、それを彼に知られることだけは避けたかった。
オレの都合で彼をここに縛り付けるわけにはいかない。
進むべき未来が、本当の幸福の姿が彼にはあるんだ。
ふさわしい姿で、共にいるべき誰かとあるべき場所が。
いつでも彼がそこへ向かって自由に飛び立てるように。
嘘はつきたくない。だが、本当のことも言えない。
お願いだ。
「――――――――」
どうか、問い質さないで。
「――……ふん」
オレの答えを、どう受け止めたのか。
彼はまた黙り込んだかと思うと、唐突に興味を失ったかのようにふいとオレに背を向け、再びベッドに身を横たえてしまった。
ようやく彼の眼差しから解き放たれたオレは、力の入らなくなった身体を壁に預けた。そのまま手探りで椅子を引き寄せ、腰を落とす。
背中を、汗が一筋伝って落ちた。耳の奥では鼓動の音が激しく木霊している。
これは、畏れ、だ。
彼にオレの心を知られるのではないか。それが怖くて仕方がなかった。
貴方も幸福の一部だと伝えれば、貴方の未来を奪ってしまう。
だが、嘘をつけば――オレの幸福の中に貴方はいないと言えば、きっと貴方を傷つけるだろう。
だからオレは、この言葉をしまっておかなければならない。永久の中に、封じてしまわなければ。もう誰の耳にも、聞こえないように。
代わりに、オレは貴方にこう告げよう。
“愛している”とよく似ているけれど、どこか異なる、この響きを。
「幸せに、なって下さい」
どうか、貴方に幸福な未来が訪れるように。
心からそう、願っているよ。



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