Melody of Love



頬を掠める吐息のあたたかさを感じる。静かに、緩やかに、繰り返されるそれは、オレと額を合わせるようにして目を閉じている彼が穏やかな夢のなかにあることを示していた。
慣れ親しんだ妖気と鍛え抜かれた強い腕に包まれて、オレはいつの間にか眠ってしまっていたようだった。
どれほどの時をこうしていたのだろうか。
頭を持ち上げて背中越しに見た窓からは、闇だけが覗いている。まだ日が昇る時間ではないらしい。そう確認したオレは飛影に身をすり寄せながら、滑り落ちた毛布を手探りで引き寄せた。
そっと、飛影の肩をなぞる。指先に触れるざらりとした感触は、まだ治りきらない新しい傷跡だ。随分深く切られたらしい。相当な使い手を相手に闘ったんだろう。
彼がここにいることが、どこかまだ夢のようだった。
一年ぶり。
彼は今日、一年ぶりにこの部屋の窓をくぐってオレのもとを訪れた。


一年前のその日、やって来た彼はいつになく上機嫌だった。手にした巻物をオレに示し、彼は「面白い仕事がある。お前も来い」とオレを誘った。
「珍しい魔具の在処を示した地図を手に入れた。明日にも盗りに出る」
確かに盗賊としては興味深い話だった。だが、
「せっかくだけど、行けませんよ」
「………何故だ」
「この場所まで行くとなると、往復するだけで一年近くかかるだろう。仕事があるし、それに、」
あまりあの人に心配をかけるようなことはもうしたくない。
その一言が、彼の機嫌を損ねたのだろうか。沈黙した彼の瞳は、まるでそこに憎い仇でも映しているような色で、オレを向いていた。そのまま何も言わず立ち上がった彼は、困惑の中へとオレを置き去りにして、闇の中へと融けてしまった。


飛影は、オレが人間らしく振舞うことを嫌う。
「どんなに上手く化けようとお前は所詮妖怪だ」
そんなふうに罵られたことがある。自分と同じ妖怪でありながら、生ぬるい、甘ったるい日常の中に進んで身を置いているオレのことを、彼は許せないんだろう。
オレが人間界のことを話題に出したことで彼が不機嫌になることは何度もあった。
だが、彼があれほどまでに怒りをあらわにしたことはなかった。理由は解からない。それゆえに、漠然と予感した。
飛影はもう、ここへは来ないのではないか。
きっと彼の中でオレの存在価値は失われたんだ。人間の生活に浸された妖怪など、飛影にとって煩わしいだけだ。オレに代わるものなんて、今の飛影の周りにはいくらでもいる。
いつかくるべきその時がきた。それだけのことだ。


気まぐれに、彼はここへやってくる。そうしてオレに手を伸ばす。オレはそれを受け入れる。それだけの関係だった。
飛影がオレに飽きればそれで終わり。
未来どころか、明日の約束さえない。
始まりがいつだったのかも解からない。だからきっと、終わるのもそんなふうなんだろう。
いつの間にか、気づいたら飛影は来なくなっていて、オレは窓の鍵を閉めるようになっている。
そう思っていたし、それでいいと思っていた。


一年前とまるで変わらぬ仕草で、飛影は部屋に降り立った。
少しだけ、髪は伸びていたかもしれない。それでも記憶の中の、あの最後の日のままの飛影が、オレの前にいた。
その時オレの中に湧き起こったのは、紛れもない、安堵だった。
飛影がまたここへ、オレの元へ来た。あの少し不機嫌そうな、奥底に炎を宿した冷たい瞳に、紛れもなくオレを映している。そのことに、オレは心の底から安堵したんだ。
「おかえり」
気づけば、そう音にしていた。まるで、彼の帰る場所がここであるかのように。
オレの言葉は、やはり飛影を驚かせてしまったようだった。少しだけ目を大きくした彼に、弁解しようと口を開くより早く、彼の傷だらけの腕に引き寄せられた。


飛影の唇は、まるですべて食い尽くされてしまうのではないかと思うほどに激しく、オレを貪った。
痛みさえ覚えるほどの抱擁。焼けつくような熱さ。オレはそれらを一つとして余すことなく、全身で受け入れた。それでも足りずに乞えば、望んだ分だけ飛影に与えられた。
重ねた鼓動の数だけ思い知らされた。
オレはどうしようもなく、貴方に飢えていたんだ。


「飛影」
そっと、その名を吐息にのせる。
瞼を下ろした彼の顔には、まだどこか幼さが残っている。それでも少しずつ、目線の高さは近づいていた。そういえば少し前まで、彼は眠るとき、オレの胸に顔を埋めていたんだ。
時は、確実に満ち始めている。
今はまだ、オレは貴方の側にいてもいいのだろうか。
あとどれくらい、いられるのだろうか。
いつまで、オレを必要としてくれる?
「飛影」
貴方は今眠っているから、オレは伝えられる。
その耳元に、そっと。
世界中の誰にも、聞こえないように。
「あいしているよ」
貴方を。



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