濡れたやわらかな感触が行き来する度、唇を開いて音の雫を溢れさせながら、その脳裏では、あの同僚の、昨日までその指に確かにはまっていた指輪がちらちらと銀色に耀いていた。あの指輪はどうしたのだろう。どこかの陳腐なドラマのごとく、川に投げ捨てられでもしたのだろうか。それとも引き出しの奥に隠されて、悲しげな光を、零しているのだろうか。
やがて銀色は、透き通った氷の煌めきに変わる。飛影を生んだひとが落とした、泪。彼と大切な人たちの間にある血と言う名の確かな絆を、その存在をもって示しているかのような、宝玉。
自分と飛影を表すもの、例えばこの二つの光る石のような物は、何だろう。そう思い、しかしすぐに、何もないと結論する。何もありはしない。そもそも、この関係が何であるのか、名をつけることは蔵馬にさえできなかった。
いつの間にか、気づけば形を成していた関係だった。そしてこの行為も。先に腕を引いたのは飛影だった。しかし、それを自然であるかのように受け入れたのは、蔵馬だった。
これは、恋人などという、口に含めばとろとろととけてしまう甘い砂糖菓子のような響きではない。仲間や友という、例えば幽助や桑原たちとのそれほど、澄み切ったものでもない。もっともっと、言うならば獲物の首を掻き斬るような、それでいて、春の日溜まりで眠るような、そんな、
「………ぅ、あ」
思考することに気を取られていたせいか、呆気なく至ってしまい、唐突に虚無感の中に放り出される。普段見せぬ様子を不審がるように顔を覗き込んだ飛影の首から、あの石が零れて、蔵馬の胸に落ちた。氷の石の感触は、熱を蓄えた蔵馬の身体には鋭すぎた。
「っ、」
蔵馬が反射的に身を竦ませたその原因を、飛影はすぐに悟ったらしかった。
「……邪魔だ」
飛影の低い声が、そう呟いたと思った。同時に、彼は二つの玉を掴むと高く掲げた。次の瞬間、引き起こされて抱き寄せられる。しかし重なった胸の間に、あの冷たさは、なかった。
「ひ、えい……」
震える息で呼びながら、その首筋を指で探す。いつもそこに掛かる二本の紐が、見つけられない。視線を落とすと、床に脱ぎ捨てられた黒衣の間に、二つの光がその身を覗かせていた。それはまるで、こちらを羨んで見つめる一対の眼球のように、見えた。闇の海に溺れながら、こちらへ手を伸ばすことも叶わずに、ただ、沈んでゆくことしかできない。そんな誰かの眼差しのように思え、蔵馬はふるりと背を震わせた。それは恐怖によってでは、なかった。
別の物に視線を奪われることを許すまいとするように、強い力が蔵馬の顎を引く。再び重ねられた唇に応えながら、蔵馬は飛影の背に、彼と同じだけ、それ以上の力をこめて、腕を回した。そうして、思う。
自分たちの間には何もない。指輪や泪の石のようなものは持たない。この行為から、新たな生命が出来上がるわけでもない。それでもいい。何故なら、今ここに、飛影と自分はいるのだ。
指輪を交わし、“未来”を誓い合っても、変わる心は否応なしに。形見は、今はなきひとを思うだけのための。片割れは、彼自身が絆を告げず、もう一つの形見を残して、遠くに。
今、自分がいて、それを訪ねる飛影がいて、瞳を合わせ、言葉を交わし、戯れ、微笑み、その傷を癒し、身体の熱を与えあって、夢を廻る。今、そうしている。それだけでいい。
それ以上に何がある?
「飛影」
離れた唇をその耳元に寄せ、口づけるように囁いた。
「今日は、酷くしてほしい」
再び出会った飛影の瞳は、驚いたような形をして蔵馬を見ていた。それがどこか幼く、いとしく思われ、思わず顔を綻ばせる。
「すごくね、なきたい気分なんだ」
少しの間、彼は何かを探すように蔵馬を見つめていたが、すぐにまた唇を触れ合わせてきた。それが注文通りの熱さをもって蔵馬を貪るので、彼は期待に胸を高鳴らせるとともに、翌日への支障の度合いはいかほどかと計算する。そして同時に、この後おそらく投げられるであろう飛影の問いから逃れる術を模索する。彼のことだから、きっと今日の常ならぬ言動の理由を聞いてくれるのだろう。“何かまた下らんことを考えていやがるんだろう”、そんなふうに言って、きっと。
廻らせかけた思考は、次の瞬間貫いた悦楽の波に溺れて溶けた。触れ合う胸の熱さを抱きしめながら、蔵馬は高く、より激しい飛影の衝動を誘うために、ないた。



かたちなきもの


2009.10.16


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