(蔵馬が社会人になって間もなくくらい)


はちみつとコーヒー



カーテンの隙間から光の帯がこぼれ落ちている。ぼんやりと開いた視界の中にそれを見つけた飛影は、小さく舌を打った。窓の外では高らかな声で鳥がさえずり、街はひそやかな囁きを交わし始めている。朝。忌々しい、人間たちの支配する時間がやってこようとしていた。
もう間もなく、頭の上で世界の終わりを告げる鐘が鳴り響くだろう。その不快な高音が、今腕の中に眠る彼の耳に届かぬように、飛影はそっとその頭を胸に抱え直した。本当は、敏感な彼の聴覚がその音を逃すはずがないことは解かっているが、それでも、もしかしたらというほんの僅かな期待のもと、そうせざるを得なかった。飛影の世界に、この美しい狐の妖しを留めておくために。
今は飛影の背を包むあたたかなこの二本の腕も、その時になれば決まってするりと呆気なくほどけていった。いつだったか、陽の光に満たされた部屋の中で、もう少しだけ手元に置いておきたくて、彼が袖を通したばかりの制服の裾を掴んだことがある。しかしそんな指はやんわりと外され、少しの言葉を残して、蔵馬は扉の向こう側へと行ってしまった。
この部屋を一歩出れば、彼は「南野秀一」だった。軽い足取りで居間に向かい、パンを焼く母親と挨拶を交わす。棚を開けて、テーブルの上にカップと皿を二つずつ。淡い色の花模様で縁どられた皿の上にパンがのせられ、カップに注がれるコーヒーから白い湯気が舞い上がった。席についた二人はそれぞれ手を合わせてから、よく似た仕草でパンに交互に透き通ったはちみつをとろりと落とし、それからカップを持ち上げる。白くなめらかな陶器から離れた少年の薔薇色の唇が、ふわりと甘く綻んで。それ以上は、飛影には見ることができなかった。
太陽のもとで、妖しである飛影は無力だった。どこまでも透き通った光に浸された人間の住処の中に、その身を溶け込ませられる場所など、どこにもなかった。異物の存在を咎めるかのように、あるいは飛影の存在をかき消そうとするかのように輝くこの部屋から、飛影はただ逃げるように、立ち去るしかなかった。
苦い記憶とともに飛影は蔵馬を強く抱き、身を隠すように息を潜める。しかし、時は二人を見逃してはくれはしない。何度聞いても不快でしかない電子音が鳴り響いた。絶望にも似た闇の中に目を閉じる飛影の腕の中で、間もなく彼が身じろいで、白い腕を伸ばす。彼の白い指になだめられ、機械はようやくその叫びを収めた。やがてゆっくりと開かれた双眸が飛影を見つけ、そっと微笑んでみせる。それが二人によって交わされる、目覚めの言葉だった。
間もなく、腕の中からずっと寄り添っていた温もりが消えてゆく。飛影の右腕が、乾いた音を立ててシーツの上に落ちた。
飛影の目の前で、蔵馬に袖を通された真っ白なシャツが、それに劣らぬほど清い肌が、絹糸のような黒髪さえもが、朝陽を透して煌めいていた。彼がまるで太陽そのもののように眩しくて、飛影は彼から視線を逃がした。枕元に立てかけた剣を取り立ち上がる。襟を整えている蔵馬の傍らをすり抜けて、いつものように窓へと向かおうとした。その背を、
「飛影」
蔵馬の声がとらえた。
「まだ、時間はありますか」
常にはない蔵馬の言葉に、飛影は足を止めて振り返った。意図が掴めず肩越しに見つめていると、それを肯定だととったらしい。微笑んだ蔵馬は、この部屋にただ一つの、ずっと固く閉ざされ続けていた扉に指をかけた。
「朝飯、食べていきませんか」
蔵馬の手によって、ゆっくりと、それは開かれた。薄闇の中から冷えた空気が静かに流れ込んで、飛影の足や、手の先から熱をさらった。蔵馬のものに似ていて、しかし彼ほど甘くはない香りが、飛影の鼻腔をくすぐる。
蔵馬のもとへと誘われるように、飛影は部屋の外へと続く扉を潜った。廊下に横たわる冷たい木の板を踏むと、それは初めて受け入れる飛影の体重に少しだけ軋んだ。
階段を降りて二人がたどり着いたのは、少しだけ広い、テーブルと、四つの椅子が置かれた部屋だった。飛影が邪眼で見た、あの場所だった。そしてあの光景と変わらず、窓から泉のように湧き出た陽光が、壁や床一面を浸している。
蔵馬は椅子の一つを引くと、視線で飛影を促した。それに従って身を屈めながらも、果たして椅子というものにはどうやって座るのだったかと飛影は戸惑う。ひどくぎこちない動きで腰掛けたのを、蔵馬に気取られなかっただろうか。そんな飛影の懸念を知ることもなく――あるいは、知らぬ素振りをしているだけなのか、蔵馬はどこか楽しげに、その目元に微笑さえ湛えながら、手際よく棚から出した皿とカップを飛影の前へと並べた。そのままコンロの前に立ち、何やら作り始めたらしい蔵馬の背中を、飛影はただ、何もできずに見つめていた。沈黙の中に自分の吐息と、蔵馬が立てる料理の音だけを、耳に聞いていた。
間もなくふんわりと膨らんだまるいパンケーキが飛影の皿と、その向かいの席に置かれたもう一枚にのせられた。それに、澄んだ黄金色のはちみつがとろりと垂らされる。カップには白い湯気の立つコーヒーが注がれ、パンケーキの甘くやわらかな香りに、芳ばしい匂いが混じり合う。闇の底を覗いたような、真っ黒な液体の中に、蔵馬の手から角砂糖が二つ落とされた。それからほんの少しのミルクを注ぎ、一回、二回と半分、銀色のスプーンで混ぜると、たちまちやさしい色になる。
もう一つ、自分の分を用意し終えた蔵馬が、テーブルを挟んだ向かいの席についた。手を合わせて、「いただきます」を言うと、カップを持ち上げる。誘われるように飛影も同じように自分のコーヒーをとった。唇をつけたそれは、蔵馬がいつも部屋へと運んでくるものと同じ香りをしていた。いつも蔵馬はあんな風にして、自分のためのコーヒーを煎れているのだと、飛影は知る。
「美味い?」
そう言って小首を傾げる蔵馬が、この部屋のすべてが、溢れ出る光の中に溺れていた。何もかもが白く美しく輝いて、飛影の前に浮かび上がっている。しかしもうその眩しさに、飛影が目を眇めることは、なかった。
「……ああ」
少しだけ間を置いて飛影が落とした肯定に、蔵馬は一層笑みを深めた。
その微笑んだままの唇が、一口大に切ったパンケーキを頬張り、指を汚したはちみつを舐めとる。そんな彼の仕草を見ながら、飛影は自分も一口含んでみた。あたたかくて甘くて、やわらかかった。
「うまい」
小さな言葉は、しかし確かに届いたらしい。一瞬驚いたように強張った蔵馬の表情が、やがて笑みに変わる。それは飛影が知る中でもとっておきで、はちみつよりも甘く、陽の光に透き通って、とろける。
やはり眩しいと思いながら、飛影はコーヒーを啜ると、ほっと一つあたたかな息を吐いた。




話の流れ上入れられなかった設定:
南野秀一が社会人になったのでお母さんだけ畑中さん宅へお引越ししました。
これからは思う存分蔵馬のことを独占できますよ飛影さん、というお話。


2010.03.08



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