飛影が人間界、すなわち蔵馬の元にやってくるのは不定期であった。
何日も続けて訪れたと思ったら、一ヶ月丸々姿を見なかったり。
別に約束をしているわけでもない。
だから例えば今日のように、実に一年ぶりくらいに窓をくぐる時も、飛影は当たり前のような顔で、堂々と土足のまま部屋の床に降り立つ。
そんな彼の眼前に、挨拶よりも先に白い何かを突き付けたのは、他ならぬ部屋の主であった。
いぶかしげに見上げる飛影にも、蔵馬は最後に別れた日そのままの容貌でにっこりと笑みを向けるのみで、相変わらずその右腕はそれを持ったまま飛影に向かって突き出されている。
こういう時はひとまず黙って従っておくのが無難と、渋々ながら受け取ったそれは、繊細な華の装飾が施された真っ白な封筒であった。
宛名のところには「飛影様」と書かれている。
「来月結婚するから」
誰からだ、と問いかけようと開いた口が、ぽかりとそのままの形で止まった。
「……誰が」
「オレが」
今度は口だけでなく目も見開かれる。
にこにこと笑みを崩さぬまま、蔵馬は一旦飛影の指の間から封筒を抜き取ると裏返し、再び元のように差し込んだ。
飛影の視線がそこに書かれた二つの黒い文字列に注がれる。
一つはよく知る蔵馬の人間名、もう一つは見たこともない、明らかに女の名。
「飛影も是非来て下さいね、披露宴」
もう一度飛影は蔵馬を見上げた。
蔵馬は相変わらず笑っている。
視線を封筒に戻して、見つめる。
数秒後、封筒は白い軌跡を描きながらぽいっと空中に放り出されていた。
「下らん」
すとん、と見事にゴミ箱の中へ消えていく。
しかしそれを見もせずに、飛影はベッドに身を沈めた。
「来てくれないんですか」
笑みをおさめて静かに呟いた蔵馬であったが、組んだ腕を枕にして横になりながら、飛影は事も無げに言い放った。
「つくならもっとマシな嘘にしろ」
その言葉に今度は蔵馬がきょとんと目を開いた。
「嘘じゃありませんよ」
「嘘だな」
首を傾げて、いかにも心外だとでも言いたげに眉を寄せる。
それが飛影の目にはわざとらしいものに見える。
いや、嘘だ。絶対に。
飛影は確信を抱いていた。
何故なら――……
「どうして嘘だなんて思うんです?」
「そんな女、一度も視たことなど――」
「あ、視てたんですか。邪眼で、オレのこと」
蔵馬の声がワントーン上がる。
その瞬間、飛影はさっと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
そしてここようやく、蔵馬の目的に気付く。
が、時既に遅し。
恐る恐る顔を上げると、ベッドサイドに立った蔵馬が満面の笑みで飛影を見下ろしていた。
「そうですか、邪眼でねぇ。でもね、貴方が視てない間に会っていたのかもしれませんよ?それでも嘘だと?有り得ないと言い切るんですか?」
覗き込むように顔を寄せて囁かれた問いに答えられず、飛影はただただ視線をベッドのシーツの上に逃がすしかなかった。
しかし蔵馬はなおも迫る。
ねぇ、どうなんですか、どうしてなんですとやたら抑揚をつけた音で繰り返しながら、飛影の頭の上を行き来する。
その度に頬を掠める蔵馬の長く柔らかな髪がくすぐったい。
そうしてひとしきり詰問したのち、あっと小さく声を上げて両の手を打った。
それはもう、いっそ清々しいくらいの白々しさで。
「あー、なるほど。それほど頻繁にオレの様子を視ていたわけですか。だから嘘だと知っていると。そうですか。へえーそうなのかーふぅーん」
最早飛影はぐうの音も出なかった。
顔を壁に向けたままぴくりとも動けない。
完全に固まってしまった飛影に、抱き付くようにして蔵馬がベッドに身を投げた。
二人分の重さに耐えて、スプリングがぎしりと軋む。
「どうなんです?ねえ、飛影?」
くすくすと笑いながら蔵馬は飛影の首筋に顔を埋める。
じゃれつくように擦り寄せてくるのを、うるさいと唐突に伸びてきた腕が捕えて引き寄せた。
そのまま服従させるかのごとく身体の下に組み敷いて、淡い色の唇に噛みついてやる。
ややあって離れた後、深い焔の双眸がふてくされたような色をして蔵馬を覗き込む。
「自分のものを見張って何が悪い」
不満を込めて呟いた。
すると蔵馬は、その吸い込まれるのではないかと思うほど大きな目をしばたかせ。
かと思うと、また深く笑んで飛影の首に抱きつき、
「そうそう、そうやってしっかり捕まえておいて下さいね。じゃないと逃げ出すかもしれないから」
唇に落とされる柔らかな感触。
それでもう、飛影は何も解からなくなる。
苛立ちも悔しさも全ては夜闇の中に溶け、ただ久しぶりに感じる甘い陶酔に身を委ねた。

「でも、やっぱり貴方だけこっちの様子を視られるっていうのは不公平だな」
まどろむ飛影の脇に頬杖をつき、そこにある邪眼をしげしげと眺めて蔵馬が言った。
「オレも時雨に邪眼でもつけてもらおうかな」
己の滑らかな額をなぞりながら小さく呟く。
それを飛影は鼻でせせら笑い。
「勝手に傷をつけるな。俺の物だ」

【遠望】(2007.6.8)


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