ある哀れな男の話

男はとても困っていた。
妻子もなく、親兄弟もおらず、先日職さえ失った彼には、もはや生きてゆくすべはなかった。
残り少ない金を何とかして補おうと賭けた大博打もすべて残酷な結果に倒れ、彼の目の前にはもう真っ暗な奈落しか、見えなかった。
しかしまだ死にたくはなかった。
やりたいこともまだまだあった。
今だけで良い、僅かでも金があれば新たな職を探すことが出来るはずである。
ともすれば地に伏してしまいそうな己に活を入れ、沈み込んでいた顔を上げた男の前に、ある一軒の家があった。
どこにでもある一般の家庭の住む二階建てである。
時刻は深夜であるため当然のことながら明かりはついておらず、しんと静まり返っている。
しばらくぼうっとそれを眺めていた男は、あるものを目にしたとたん顔をこわばらせ、そしてこくりと喉を鳴らした。
一階の窓が開いている。
びゅう、と冷たい風が横切って、かかっているカーテンを揺らした。
この季節、窓を開けたまま眠る者があろうか?
男は周囲を見回した。
両隣の家の窓はどこもしっかりと閉じられている。
向かいの家も然りである。
ひょっとすれば、留守なのではなかろうか?
男の思考がその考えに辿り着いたとき、彼の足は、吸い寄せられるようにふらふらとその窓へ向かっていた。
辺りを見回し、人のいないことを確認して頭を突っ込む。
そこは和室で、やはり誰もおらず、丁寧に畳まれた布団が部屋の隅に置かれていた。
男は確信した、間違いなく、留守である。
次の瞬間男の身体は窓枠を乗り越えていた。
そうしてまるで熊のようにうろうろと部屋の中を歩き回る。
入ったものの、どのようにすれば良いのか解からなかったのである。
しかし指先にしっかり布を巻いて、指紋がつかぬようにすることは忘れない。
一先ず、音を立てぬよう箪笥を開ける。
通帳や印鑑などの類は大抵こういうところに仕舞われている。
しかし、すべて開いてみてもそれは見当たらなかった。
次いで押入れや台所、居間も回るが目ぼしいものはない。
男はだんだんあせり始めた。
何か、何か無いか?
ここまできて、何も盗らぬわけには行かない。
妙な使命感が男の中に芽生え、必死の形相でついに二階へと続く階段に足をかけた。
ぎ、と木の軋む音に一瞬怯みながらも、一歩一歩、ゆっくりと踏みしめるようにして男は上った。
その先に、一枚の扉があった。
ためらうことなくドアノブに手をかけた――途端。
まだ回してもいないのに扉が開き、男は凄まじい力でその中に引きずり込まれた。
声もない叫びを上げながら床の上に投げ出され、混乱のままに身を起こした男の目に、ゆうらりと動く何かが飛び込んだ。
「やれやれ……邪魔が入ったな」
動く何かの後ろからそんな声が聞こえ、男は恐怖のあまり身体をがくがくと震わせながら、やっと眼球だけをそちらに向けることができた。
ざわざわと、纏いつくようにして動いているもの――それは、何か植物の蔓や茎、枝葉であった――それらの中央に、男は狐がいるのをみた。
つんと尖った耳、しなやかな尾、人型をしていたが、間違いなく、この世のものとは思えぬほどに美しい、狐であった。
それが金の瞳でこちらを向いて、にいと笑っているのであった。
そうして、ふと切なげに吐息を漏らすと、背を反らせてその胸元に目をやった。
男がつられてそちらを見ると、そこにも目が――こちらは血に濡れたような紅いそれがあって、鈍い光を宿してこちらをねめつけていた。
恐怖に震えながら男は、これは二つのいきものが一つになっているのだと白い頭の中で理解した。
ああ、恐ろしい家に来てしまった、鬼と狐が睦みあう、魔の住処に迷い込んでしまった。
己の存在を忘れたかのごとく絡み合うあやかしたちを前に、男の身体はまるで痙攣したように震えて、唇さえ結べなくなっていた。
やがて、その場に縫い付けられたように動けない男を、濡れた瞳でちょっと見遣って、薄く笑いながら狐が告げた。
「用が無いなら去るが良い。そして二度と愚かなまねはするな……」
男はがくがくと肯いた。
それに狐が笑みを深くすると、周囲でゆらゆらとゆれていた蔓のひとつが男の腰を絡め、扉の向こうへと払い落とした。
床に落ちた痛みで正気を取り戻した男は、転げ落ちるようにして階段を下りると、自ら入ってきたあの窓から躓きながらも抜け出して、ぶつけた足を引き摺りながら、一度も振り返ることなく逃げ去ったのであった。

「……悪趣味だな」
銀の毛に覆われた耳に唇を這わせながら、紅い瞳のあやかしが呟いた。
「だが、もう二度と盗みに入ろうなどとは考えないだろうよ」
おかしげに狐が笑う。
紅瞳のあやかしは呆れたように吐息をつくと、狐の腰を抱き寄せた。
やがて、くすぐるような笑い声は切なげな吐息へと変わり、大きく揺れると、狐は短く鳴き声を上げ、そうして、果てた。

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