あのときはまだ知らなかった

まどろんだ意識の中にその横顔を見付けてゆっくりと引き上げられるように覚醒する。
「起きたか…」
気付いて振り返る長い黒髪。
触れたことはないが、いつも見る限りでもまるで絹糸のごとく美しくしなやかなそれが、少し乱れて肩に散っていた。
身を起こせば目に映る血に濡れた衣服、そしてその破れ目から覗く傷ついた白い肌、包帯などの手当ての跡。
そこでようやく今自分が置かれている状況を思い出す。
「俺はなん時間寝てた!?」
「六時間ほど」
俺の疑問に、読んでいた書物のページを捲りながらそいつは答えた。
「大会は!?桑原と幽助は!?」
「まだ戦ってませんよ」
「なに?どういうことだ」
状況が掴めず眉を寄せて更に問えば、本を閉じながらこちらに向き直る。
「あなたの後始末に手間取っていたんですよ。随分暴れてくれましたからね」
薄紅のふっくらとした唇に笑みを乗せ、大きな瞳でやや上目使いに見つめてくる。
これがたちの悪い代物だということは重々理解していたため、俺は逃れるように顔を背ける。
その際視界に入った己の右腕に包帯が巻かれていたことに、違和感を覚えた。
己で巻いた記憶はないし、不可能であった。
戦いが終わると共に俺は眠りに落ち、そしてたった今、目覚めたのである。
となると、やはり――
「オレが巻いておきました」
思考を読んだかのように答えが返った。
視線を向けるとやはりあのたちの悪い笑みを浮かべている。
「あなたが眠っている間に黒龍が暴走しては大変ですからね」
「ふん……」
忌々しいが事実であるため反論できず、その上これは、俺が施したものよりも遥かに出来の良い封印がなされていた。
丁寧に巻かれたその一筋を指で辿る。
おそらくこれが正しいかたちなのだろう。
「さすが伝説の盗賊だな。こんなことまで熟知していやがるとは」
意図せず漏れた半分は素直な賞賛の言葉に、
「伊達に長く生きてないさ」
そう答えたそいつの笑みが一瞬自嘲のそれへとすり変わったように見えたのは、果たして気のせいだったのか。
次にはもういつもの顔をして、
「今度正しいやり方を伝授しますよ」
綺麗に笑ってみせる。腹が立つほどに。
「今はだめなのか」
「ええ、帰ってから」
「ふん」
細い指が忌呪帯の上から腕に触れる。
そこにもいくつかの傷を見つければ、何か重いものが腹の底からせりあがってきて、喉を詰めた。
帰ってから。
そう口の中で繰り返した時、周りを取り巻いていた声が一層高まった。
それが合図であったかのように、ためらいもなく指は離れる。
ただ、僅かな熱だけを残し。

それを何となく惜しいと思った。
それだけだった。

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